TUP BULLETIN

速報548号 リバーベンドの日記 4年目の9・11  050917

投稿日 2005年9月17日

DATE: 2005年9月17日(土) 午後11時23分

911から4年、勝負はあった、3千対10万でアメリカの勝ち


 戦火の中のバグダード、停電の合間をぬって書きつがれる25歳の 女性の日記『リバーベンド・ブログ』。イラクのふつうの人の暮らし、 女性としての思い・・・といっても、家宅捜索、爆撃、爆発、誘拐、 検問が日常、女性は外を出ることもできず、職はなくガソリンの行列 と水汲みにあけくれる毎日。「イラクのアンネ」として世界中で読ま れています。すぐ傍らに、リバーベンドの笑い、怒り、涙、ため息が 感じられるようなこの日記、ぜひ読んでください。(この記事は、T UPとリバーベンド・プロジェクトの連携によるものです)。 (転載転送大歓迎です)

(TUP/リバーベンド・プロジェクト:池田真里) http://www.geocities.jp/riverbendblog/


2005年9月11日日曜日

2005年9月11日・・・

「リバーベンド、来て! これを見て!」 2001年9月11日のこと。 私は台所で昼ご飯の後片付けをしていた。一瞬、弟の声にただならぬものを感 じたが、皿を洗い続けた。イラク国家統制放送局が、何かしら重要めかしたニ ュースでも発表したのだろうと思いながら。

「今行くわ、すぐに」と私は応えた。そこへ電話が鳴り始め、台所へ向かう 途中で私は受話器を取り上げた。

「もしもし?」  「テレビ、見てる?」と、前置きもなく受話器から叫んでいるのは、親友のL。  「そのー、見てはいないんだけど・・・」  「すぐに見て!」

電話は切れた。私は受話器をおいた。心臓がどきどきしていた。知りたくも あり不安でもあり、いったい何だろうと思いながら、リビング・ルームへ向か った。誰か死んだのかしら? また爆撃されるのかしら? その可能性はつね にあった。アメリカが空爆を再開したとしても誰も驚かない。今度こそブッシ ュは、オーバル・オフィス(大統領執務室)の大統領補佐官に言いくるめられ たのではないだろうか。

リビング・ルームに入っていくと、E(弟)はそのただ中に突っ立っていた。 目はテレビに釘付け、口を少し開け、リモコンを手に握りしめ、テレビに向か っていた。

「何?」 スクリーンを見て私は聞いた。映し出されたシーンは、混乱のき わみだった。そこは、大都市で、煙か粉塵かが立ちこめ、スクリーン中に逃げ まどう人々の姿があった。叫ぶ人、泣く人、顔に驚きの表情を貼り付けた人々。

その表情には、テレビを見つめてぽかんとしているEと似たものがあった。ア ラビア語に吹き替えられていたが、その背後に聞き取れた話し声は英語だった。 何が話されていたか、覚えていない。思い出すのは、テレビのスクリーンに映し 出された光景だけ。大混乱。大破壊。

そして再びそれが映し出された。ツイン・タワー。ニューヨークだ。スクリー ンの端から何か小さなものが飛び出すと、ツイン・タワーの一つに激突した。 私は音がするほど大きく息を飲んだ。Eは、ただ首をふった。「何でもないわ、 ちょっと・・・」 私はテレビから目を離さずに、ソファへ向かった。スクリー ン上には、さらなる混乱、驚愕の表情の数々、もう1機とツイン・タワーがあっ た。二つのビルは、崩れ落ちようとしていた。倒れ始めた。やがて煙と粉塵がも うもうと立ちこめる中に見えなくなった。

その瞬間、私は飲み込んだ息を吐き出すことができなかった。身動きできずス クリーンを見つめたまま座っていた。心の片隅では「きっとジョークよ、ハリウ ッド一流の」と思っていた。が、あまりに生々しく、恐怖は本物だった。テレビ から聞こえてくる声は取り乱して、混乱と恐怖そのものだった。

リビング・ルームの沈黙は、リモコンがカタンと床に落ちた音で破られた。Eの 手からすべり落ちたのだ。私は驚いてとび上がり、電池が転がり出るのを見ていた。

「だけど・・・誰が? どうして? 何なの? 飛行機で? どうやって???」

Eは頭をふり、恐れおののいた表情で私を見た。湧いてくる疑問の答えを見つけ ようと、私たちはテレビを見続けた。その時わかったことは、これは何かの間違 いではなく、意図的なもの、大規模テロ行為だということであった。

その時、アルカーイダという名はごくあいまいなイメージでしかなかった。イ ラク人は、もっぱら自分たちの問題や不安にかかり切りだった。経済制裁(訳注 1)と、アメリカ軍の空爆(訳注2)によって人生が数年毎に足踏みするように 思える現実と闘いながら、生き抜くのにせいいっぱいだった。イラクにはイスラ ーム原理主義の問題はなかった。それは、サウジアラビア、イランなど隣国の問 題だった。 (訳注1:1990年、イラクのクウェート侵攻後、国連安保理決議によりイラ クは外国との通商をほとんど禁止され、国民生活は困窮した) (訳注2:1991年の湾岸戦争後も米国は、口実を設けては始めの頃は数ヶ月 毎、後には2-3年毎にイラク本土を空爆した)

事件のほとんど直後から、西側メディアはどのイスラム・グループの犯行かと 当て推量を始め、私はイスラム教徒やアラブ人でなければいいと願っていたこと を思い出す。そんなふうに思ったのは、何千もの犠牲者が出たからというだけで はなく、苦しむのはイラクの私たちだと感じ取ったからだった。自分たちの与( あずか)り知らぬことのために、苦しめられるのだ、と。

その日、Eは大きく見開いた目で私を見つめ、こう聞いた。それはいずれ誰かの 口から出されるべき問いだった。「あとどのくらいで爆撃が始まると思う?」  「だって、私たちがやったんじゃないわ。私たちのはずがないでしょう・・・ 」と私は冷静に応えた。 「そんなことは問題じゃない。 彼らにとってもう十 分な口実だ」

そして、それは本当だった。アフガニスタンから始まり、次はイラクだった。 私たちは事件後ただちに、備えを始めた。みんなが小麦粉、米、砂糖などの必需 品を蓄え始めると、ドル価格が上昇した。

数週間というもの、話はそれしかないみたいだった。大学をはじめあらゆる学 校で議論され、職場でもレストランでも話題となった。人々の気持ちや意見はさ まざまだった。うれしいという感情はまったく無かったが、一種苦い満足感が見 られる人もあった。アメリカが自ら招いた災厄だと考えるイラク人もいたのだ。 ――国際問題に出しゃばるから、こうなるのも当然さ。人を飢えさせた報いにき まってる。恥知らずにもイスラエルのような乗っ取り国やサウジアラビアのよう な腐敗した独裁王を支持しているからだ、と。

しかし、大多数のイラク人は同情していた。その後数週間、恐怖に駆られ、身 内や友人をさがして半狂乱で瓦礫をひっくり返して探すアメリカ人の映像に、私 たちは共感していた。目にしている惨状は、私たちにはとても身近なものだった。 あれ以来アメリカ人が飛行機の音を怖がっているという記事に、私たちは共感と ある種の親しみを感じてうなずくのだった。誰であれその中の一人にこう伝えた いと思うのだった。「大丈夫。恐怖はいつかはおさまりますよ。私たちはよく知 っているのです――あなたの政府に2,3年毎に同じ事をされてきたのですから」。

今日で4年目。4年後の今、どんなふうに感じられる?

アメリカの犠牲者3千人に対し、イラクの死者10万人以上。そのほか何万人 もが拘束され、尋問と拷問にさらされている。家々は強制家宅捜索され、町々は 絶え間なく爆撃され、イラクは数十年前に戻ってしまった。今後数年間、戦争前 には経験しなかった過激主義の勢力下で苦しまなくてはならない。

これを書いている間も、モスルの北西の小さな町、タル・アファル(訳注:シ リアとの国境に位置し住民はトルクメニスタンが多い)が爆撃されている。真夜 中、何十人もの人々が、家の下敷きにされて埋められようとしている。何日も断 水し停電したままだ。でも、タル・アファルの人々は、きらびやかな大都市の立 派な高層ビルの住人ではないのだから、たいした問題ではないように思える。ま ったくのところ農民や羊飼いたちなのだから。ためらうことはない。

4年たって、テロとの戦いは決着がついた(それとも戦争という名のテロだっ たかしら?)。

スコア  アルカーイダ 3000  アメリカ   100000+アルファ

やったね、おめでとう。

午後11時29分 リバー

(翻訳:TUP/リバーベンド・プロジェクト:池田真里)

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