TUP BULLETIN

速報579号 リバーベンドの日記1月18日 湾岸戦争15周年 060122

投稿日 2006年1月22日

DATE: 2006年1月22日(日) 午後1時21分

あのとき、終戦後には復興があった、私たちの手で成し遂げた復興が


戦火の中のバグダッド、停電の合間をぬって書きつがれる若い 女性の日記『リバーベンド・ブログ』。イラクのふつうの人の暮らし、 女性としての思い・・・といっても、家宅捜索、爆撃、爆発、誘拐、 検問が日常、女性は外へ出ることもできず、職はなくガソリンの行列 と水汲みにあけあけくれる毎日。「イラクのアンネ」として世界中で 読まれています。すぐ傍らに、リバーベンドの笑い、怒り、涙、ため 息が感じられるようなこの日記、ぜひ読んでください。(この記事は、 TUPとリバーベンド・プロジェクトの連携によるもの


イラク人の知恵の証

2006年1月17日は、1990年のイラクによるクウェート占領(少しの間だけど) 後に起こった1991年の湾岸戦争15周年だ。(アメリカの用語法に従えば、1990 年イラクによるクウェート"解放"後かしら)

42日間、バグダードなど大きな都市も町々も、国際的に推計されているとこ ろでは、14万トンの爆薬で爆撃された。爆撃は、学校、集合住宅、工場、橋、 発電所、行政の建物、下水処理場、精油所、通信施設、そして防空壕に対して さえも、容赦なかった。(イラクでたった一つの赤ちゃん用粉ミルク工場や約 400人もの民間人が爆撃によって殺されたかのアミリヤ防空壕もある)

“イラク復興局"と復興関連省庁が公表しているところでは、42日間続いた 爆撃、および様々な破壊行動による2003年戦争/占領以前の被害は、以下 のとおりである。

学校および教育施設: 3960カ所  大学、研究室、寮: 40カ所  保健医療施設(病院、診療所、医薬品医療器具会社の倉庫): 421カ所  電話交換所、通信塔など: 475カ所  橋、ビル、集合住宅: 260カ所  倉庫、ショッピングセンター、穀物貯蔵庫: 251カ所  教会とモスク: 159カ所  ダム、給水所、農業用施設: 200カ所  石油関連施設(精油所など): 145カ所  一般サービス、(避難所、汚水処理場、公共施設): 830カ所  工場、鉱山、工業設備: 120カ所

…いやこれだけではない。ラジオ放送塔、博物館、孤児院、老人ホームなど まだまだある。ダム、橋、倉庫、省庁の建物、食物貯蔵庫などへの大規模被害 は軍用機とミサイルによるものだが、南部やキルクークなどでの小規模施設の 被害は、主に破壊行為によるもので、主にイランから南部に潜入し、イラク国 内に支持者を見つけたグループ「後悔する者たち」(the Repentant)(アラビ ア語ではタワッブン)が火をつけた“インティファーダ"(蜂起)のしわざだ った。 (タワッブンの大部分は現在のバドル旅団である)。

1991年に南部で起こったのは、2003年にバグダードで起こったことと同じ―― 爆撃、略奪と攻撃。戦争の間、共和国防衛隊が、地方に撤退した後に地域は大混 乱に陥った。いっぽう、アメリカ軍はクウェートから撤退していくイラク軍を爆 撃し、タワッブンは戦車と銃を捨て南部を徒歩で戻ろうとしていたイラク軍兵士 を殺戮した。攻撃、略奪と爆撃で死んだ軍や民間人の多くは集団墓地に埋められ た。私たちがとりあえず、ぜーんぶサダムや共和国防衛隊のせいにして、それ以 上は文句を言わないのは、独裁者を非難するほうが簡単だからというだけのこと。

脱線してしまったけれど、今日の話題は復興。 戦争が終わるとすぐに、関係 省庁は、復興を果たすために招集された。課題はインフラ――製油所、電気、水、 橋、通信網をもとに戻すことだった。

これは難題だった。というのも、ひじょうに多くのイラクの基幹施設や建築物 は、フランス、ドイツ、中国、日本などの世界中の企業が設計し建設したものだ からだ。外国の専門技術は1991年以降、戦争と経済制裁で入手できなかった。イ ラク人の技術者は、限られた物資と自分たちだけの力で湾岸戦争後の荒廃に立ち 向かわなければならなかった。

2年という年月とおよそ80億ディナールを費やして、被害の90%近くが再建さ れた。およそ6,000人の工学者(すべてイラク人)、4万2000人の専門家、そして1 万2000人の行政担当者を投入し、橋はやがて架けなおされ、電話はおおむね繋が り、精油所は稼働し、水は出ていたし、電気は100%ではなかったけれど、確かに 今よりはましだった。 最初の2年で、大小100以上の橋、精油所16基、工場や 工業複合施設50カ所以上が再建された。

完璧とはいえなかった。ハリバートンじゃなかったし・・・、KBR(ケロッ グ・ブラウン・アンド・ルート)でもなかった・・・けれど、でもイラク人の手 によるものだった。戦争の間破壊された建物や橋なりが、機能し以前より立派に なってくるのを見るのは、何ともいえない満ちたりた、誇らしい気分だった。

現在、イラク戦争から3年近くたつけれど、建物群はまだ残骸の山のままだ。電 気はひどい。水道は、いったん途絶えると何日もそのままだ。 電話回線は止まっ たり、通じたり。石油生産は戦前のレベルにさえ届かない…そして、イラク人は 何十億という金が費やされては消えていく話を聞いているだけ。十億は治安に… 五億はインフラの整備に…数百万は選挙に…イラクは借金地獄に堕ちていく…技 術者に職のないのは単に彼らが宗教団体や政党に属していないから…そして国内 はめちゃめちゃのまま。

大規模かつ複雑でありながらひじょうに迅速に遂行された復興プロジェクトの 1つはバグダードにあるドーラ 精油所だった。 それは、イラクの最も古くて大き な精油所の1つ。 湾岸戦争の間、何度か爆撃され、産油は休止した。 戦後に、イ ラク政府がイタリアの会社に再建を交渉したが、会社が要求してきた額はとてつ もなく高額だったといわれている。再建事業は国内の力だけで行われることが決 められ、直ちに開始された。 数カ月後の1991年夏、イタリアの専門家が被害の査 定に戻ってきたとき、彼らは精油所が機能していたのを知った。

以下は、再建に関わった、現在アンマンで失業中の技術者が私に送ってくれた 何枚かの写真である。写真は、痛ましく、同時に元気づけてもくれる。15年後 の今日、この国にもたらされた破壊の跡を見るのはつらい。しかし、これら「そ の後」の写真たちは、占領者と干渉者に抗して、イラクが再び立つ日があること を確信させてくれる。

注:ほんとは「その後」写真に、そっくり全部「アメリカ人が再建したにあらず」 ってスタンプを押したかったの。一カ月とたたない内に、とんちきな共和党員が 「ほれ見ろ、我々が復興してやったんじゃないか」と書いて送り返してくるだろ うってことはわかっているんだけれどね。

Dawra Refinery:ドーラ精油所(以前) ドーラ精油所(復興後)  Alwiya Operator (public switchboard) (アルウィーヤ電話交換所)  Fayha Bridge in Basrah (before)バスラのファイハ橋(以前)  (以上は、破壊後の写真、再建後の写真がそれぞれ掲載されています。  サイトを見てください。   http://www.geocities.jp/riverbendblog/

復興に関する写真と情報を送ってくれたM.ハマッドさん、ありがとうござい ます。

午前1時52分 リバー

(翻訳:リバーベンド・プロジェクト/金克美)