TUP BULLETIN

速報890号 シリーズ「パレスチナの女性の声」【3】前編 [居住権の侵害-1]

投稿日 2011年2月21日

◎ 女たちの証言--占領下パレスチナで生きるということ
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このシリーズ「パレスチナの女性の声」はWCLAC(女性のための法律相談センター)の2009年報告書の翻訳です。「空間的扼殺(スペシオサイド)」とも形容される占領下で、日常的暴力と人権侵害に苦しむ女性に対する聴き取り調査に協力した19人の女性の証言をお届けしています。


今回と次回の2回にわたるシリーズ3では、イスラエル政府の権威主義的、恣意的政策がパレスチナの人々の居住に与える影響を取り上げます。それらの政策が原因で家族はいっしょに住むことを許されず、長期間、引き離された生活を強いられます。そのような生活において、女性、特に母親が被る負の影響は相対的に大きく、家族全体に及びます。また、イスラエル政府は、同居するためにはその許可を取得することを要求しますが、政府自体がその申請書類をきちんと処理していない実態についても詳しく述べています。


報告書はこのあと、最後の章「家屋の取り壊し」へと続きます。
 
シリーズ全体の前書き:岡真理、向井真澄/TUP(TUP速報869号をご覧ください)


翻訳:岡真理、キム・クンミ、寺尾光身、樋口淳子、藤澤みどり、向井真澄/TUP
凡例 [ ] :訳注 
   〔 〕:訳者による補い
 

パレスチナ女性に対するイスラエルの人権侵害報告書―2009年度版
シリーズ【3】― 居住権の侵害と引き離される家族 前編 


国際人権法は、一国の領土内に合法的に居住する者は誰でもその居住場所を自由に選択できると規定しています。さらに誰も、プライバシーや家族、住居に対してほしいままに干渉を受けることがあってはならないとします。このような法的規定があるにもかかわらず、何千人ものパレスチナ人が複雑な許可証制度や官僚支配による行政といったイスラエルの政策による影響を被り、家族がいっしょに暮らすことを妨げられています。これらの政策は、外国のパスポートを保持する配偶者や家族を持つパレスチナ人、東エルサレムに住む配偶者や家族との同居を希望する西岸出身のパレスチナ人、そして西岸あるいは東エルサレムに住む配偶者や家族との同居を希望するガザ出身のパレスチナ人に影響を及ぼします。


2007年11月以降、イスラエルは、ガザ出身のパレスチナ人が西岸にとどまるには許可証の取得を義務付けています。その一方、ガザ出身者が西岸出身者と結婚しても許可証が発行されることはありません。つまり、イスラエルは、西岸出身者とガザ出身者の夫婦が同居することを妨害しているのです。家族は、〔同居〕申請書が処理され認可がおりるのを待ちながら何年もの間離ればなれに住まなくてはなりません。多くの家族は、いっしょに暮らすために西岸から出て行くことを強いられてきました。


イスラエルが、その管轄下にある国境で外国パスポート保持者の入国を恣意的に拒否することもまた、パレスチナ人の生活に深刻な影響を与えています。イスラエルがとるこの政策のため経済投資は困難で、さまざまな形で妨害されています。教育機関そして医療事業をはじめとする欠くことのできない福祉厚生事業も、熟練人員が不足しているために大きな負担をかかえ、質が低下しています。最近とられた措置にはまた、外国パスポートの保持者で、そのビザに押印される「パレスチナ自治政府管轄地域のみ〔PA Only〕[訳注7]」があります。このような印があることで、エルサレムへ入ることだけでなく、A地区、B地区、C地区[訳注7]間の行き来も妨げられます。

 [訳注7]:本文の最後をごらんください。


女性が被る影響
WCLACは何百人という女性が影響を被っていることを知り、そのうちの何人かに綿密な面談を行ってその証言を詳細に記録してきました。面談で女性たちは家族から引き離された体験を語り、毎日の生活が影響を受けている様子や自分たちに降りかかる精神的、社会的、経済的影響を明らかにしています。


これらの政策が全住民に対し計り知れない影響を与えてきているのは事実ですが、パレスチナ人女性が被る、また国際的な規約や協定が保障する基本的人権をパレスチナ人女性が享受する際に受ける不公平で不平等な影響については、強調しすぎることはありません。女性はしばしば、父親がいない状況で子育てをするという重荷を負わされてしまいます。子どもを養育しなければならないときに職を見つけることは社会的にも実践的な面でも困難だとわかり、そのような状況の中で家計も苦しくなります。


リマーズ(証言12)はエルサレムで夫と暮らしていますが、規定どおりの書類がないために普通の生活をおくることができません。彼女は、生活のあらゆる場面で被っている影響について語っています。「私にとって、勤め先に行くのもエルサレム市内のどこに行くのもますます難しくなりました。買い物に行けなかったし、友だちのところに行くこともできませんでした。子どもたちを学校に送り届けたり、医者や病院に連れて行くこともできませんでした。夏休みに私が子どもたちといっしょにどこかに行くなんて考えられなかった。同い年の子たちが参加するサマーキャンプがあるのですが、子どもたちをそこに連れていくこともできませんでした。私は、多忙を極めている夫に全面的に頼るしかありませんでした」


子どもたちへの影響とともに、母親と子どもたちの関係もまた、イスラエルの政策の影響を受けています。それは家族のつながりの崩壊を引き起こすことにもなりかねません。リマーズは、彼女自身の生活に課された制約が子どもたちに影響を与えてきたと強く感じています。「子どもたちは、友だちの母親は友だちをいろいろなところに連れて行ったり、ドライブに連れて行ったり、いっしょに街でいろいろなことをしているのに、なぜ自分たちの母親が同じようにできないのか理由がわかりませんでした。理解するには幼すぎたんですね。ときたま、私のことを恨んでいるように感じました。私たち一家にとってとてもつらかったです」


ザリーフェ(証言11)は、パレスチナの身分証を持っていないブラジル生まれのいとこと結婚しました。この夫婦は17年間の結婚生活のうち9年間、離ればなれで暮らしています。結婚後すぐ、家族同居申請書をイスラエル当局に提出しましたが、まだ処理が終わっていません。一番下の子どもは今5歳で、生まれてから父親といっしょに過ごしたのはたったの3週間です。シングルマザーとして保守的な社会で6人の子どもたちを育てるザリーフェの人生は容易ではありません。さらに悪いことに、2006年、観光ビザで家族に会いに来ようとした夫がベン・グリオン空港で入国を拒否されました。夫婦はそれ以来会っていません。ザリーフェにとって夫とのこれからの関係が心配です。身内だという気持ちが薄らいでいます。
 

彼女はまた、父親がいるとはどういうことか知らないまま子どもたちが成長しつつある事実にも心を痛めています。「2004年から今まで、子どもたちと私は夫と離ればなれの生活です。この5年間、とてもつらい思いで過ごしてきました。夫がいない中で6人の子供たちを育てるのは容易なことではありません。子どもたちにとってもたいへんつらいことです」。「一番下の娘は最初、自分の父親を受けいれることができませんでした。彼が抱きしめたりキスをしたりするのをいやがり、近寄ってくるたびに泣き叫びました。娘は、自分にとってただの他人でしかない父親にどういうふうに接していいのかわからなかったのです」


ザリーフェと夫との関係もまた、別居による影響を免れることができません。彼女はWCLACにこう語りました。「私たち夫婦の関係はもう以前と同じではありません。あまりにも長い時間を別々に生活してきました。将来のことが不安です」


証言11
ザリーフェ・アブデルジャウワード・アブデルラフマーンの証言
場所:ラーマッラー、デイル・ディブワーン
聴き取り日時:2009年7月30日
 
私はザリーフェ・アブデルラフマーンです。年は37歳で、ラーマッラーの近くのデイル・ディブワーン村に6人の子どもたちと住んでいます。一番上は17歳で一番下は5歳。私はパレスチナ身分証を持っています。1992年にいとこのジャマール・アブデルラフマーンと結婚しました。彼はパレスチナ人ですが、パレスチナ身分証は持っていません。1970年にブラジルで生まれ、これまでほとんど外国で生活してきました。ブラジルのパスポートを持っています。私たちが結婚した1992年、夫は観光ビザで入国しました。それから一ヵ月後、私たちはアメリカ合衆国のニュージャージーへ向かいました。そこに住み、3人の子どももそこで生まれました。


1996年、私の祖母が大病を患ったため、私は看病をしようと故郷の村に戻ることにしました。そしてデイル・ディブワーン村には2000年まで居ました。この間、夫は1年に一度、観光ビザを使って私たちを訪ねてくれていました。ビザの期間を超えて滞在したことは一度もありません。1997年に来てくれたとき、夫はパレスチナ民事局を通じてイスラエル当局に家族同居申請書を提出しました。許可されれば、夫は私たちといっしょにデイル・ディブワーンに住むことができるのです。彼の実家で、そしてそのあとは、村に建てている私たち家族の家で。


2000年、夫はアメリカにはもうそれ以上住むことができなくなったため、カナダに移りました。同じ年、私たちは夫に合流し、2004年まで家族全員でカナダに住みました。この間、私は村には戻りませんでした。2004年、夫と私は、子どもたちのためにはデイル・ディブワーン村に戻ってそこに住んだほうがいいと決心しました。その年に子どもたちと私はデイル・ディブワーン村に戻りました。当時、私たちは、夫が提出した家族同居申請はまもなく認可されるだろう、そして夫も私たちといっしょに村に住むことができるだろうと思っていました。ところが、そうはなりませんでした。私は夫の提出した申請書のことについて何度も問い合わせましたが、返ってきた答えは、イスラエル当局は2000年の第2次インティファーダ[訳注8:民衆蜂起]以降、外国に居住する外国パスポート保持者が提出する家族同居申請書の処理を停止した、でした。


2004年から今まで、子どもたちと私は夫と離ればなれの生活です。この5年間、とてもつらい思いで過ごしてきました。夫がいない中で6人の子どもたちを育てるのは容易なことではありません。子どもたちにとってもたいへんつらいことです。一番下の娘は5歳ですが、生まれてから父親といっしょに過ごしたのはたったの3週間です。父親がいるとはどういうことか知らないままに娘は育っています。息子のことも心配です。息子の年代の少年には、精神的に支えてくれ、アドバイスを与えてくれる父親が必要です。


2006年、夫は私たちを訪ねて村に来ることにしました。空港でイスラエル当局が彼の入国を拒否し、即座に国外退去させようとしました。夫は、この国に自分の家族が住んでいて、その家族に会う必要があると説明し、抗議しました。夫は弁護士を雇ったのですが、三千ドルを要求され、それを支払いました。イスラエル当局は15日間、夫を空港に拘禁し、拘禁期間の終わりになって法廷での裁断を指定しました。


子どもたちと私は、法廷で傍聴するのと夫に会うため、イスラエル入国許可証を申請しました。イスラエル入国の許可がおり、私は2年ぶりで夫の姿を目にすることができました。感情が高ぶりました。私たちは遠くから夫に手を振りました。子供たちはとてもうれしそうでしたが、ほんとうのところ、何が起こっているのか理解できていませんでした。


イスラエルの諜報部員が2人、法廷に入ってきました。彼らが裁判官に何を言ったのか理解できませんでした。法廷では誰もがヘブライ語で話したのですが、夫も私もヘブライ語がわかりません。夫の弁護士は発言の機会を与えられませんでした。そして裁判官は、夫はイスラエルの安全にとって脅威を与える存在だと主張し、入国を許可しないという結論を下しました。この結果を聞いて、私は打ちのめされました。人生で最悪の瞬間でした。夫が法律を犯すことになんてかかわっていないのは私がよく知っています。夫は家族を養うため、そして自分の両親を助けるためにたくさん稼ごうと、ずっと外国で一生懸命働いてきました。実際、9歳から14歳までの子ども時代にしかこの国に住んだことはないのです。そんな少年だったときに何をやって法を犯すことができたでしょう。私はたいへん悲しくなり、自分と子どもたちの将来が心配になり始めました。


裁判官は、夫を次の便で送りかえす前に一時間、私たちが夫といっしょに過ごすことを許可しました。夫はそのとき初めて一番下の娘と会いました。私たちの周りを4人の監視官が取り囲んでいて、夫を監視していました。子どもたちと私は夫とともにカフェで座って話しました。夫はその間中ずっと私たちに、だいじょうぶだ、安心しろと言い、次はヨルダンかエジプトで会おうと言ってくれました。夫が子どもたちのために何かを買おうと隣の店に行くと、監視官は、夫がまるで犯罪者であるかのようについてまわりました。子どもたちは混乱し、いったい何が起こっているのか理解できませんでした。


監視官の1人がやってきて夫に手錠をかけ、連れていきました。私たち家族にとってたいへんつらい瞬間でした。涙があふれてきました。子どもたちが心配で、何を考えているんだろうと気になりました。父親が犯罪者のように扱われているのを子どもたちに見て欲しくありませんでした。夫は、家族みんなで会える方法をじきに見つけだすから心配するな、と言いました。監視官が彼を連れ去って行ったとき、夫は声をあげて泣いていました。


その年の夏、私たちは全員でエジプトに行き、夫と合流しました。家族がいっしょで、たいへん楽しい時間を過ごしました。ナイル河で舟に乗り、子どもたちを動物園に連れていきました。一番下の娘は最初、自分の父親を受けいれることができませんでした。彼が抱きしめたりキスをしたりするのをいやがり、近寄ってくるたびに泣き叫びました。娘は、自分にとってただの他人でしかない父親にどういうふうに接していいのかわからなかったのです。この旅行の終わりごろになってようやく父親に心を開き、受け入れることができました。家族がエジプトで3週間過ごすのはたいへん高くつきましたが、それだけのことは十分ありました。残念なことに、旅行を途中で打ち切らなければなりませんでした。私の父が大病を患っていて、私に会いたがっていたからです。村に戻り、その2日後、父は亡くなりました。


夫は今、ダブリンに住み、そこで働いています。カナダに引き続き住んで働くための申請が却下された後、2004年にダブリンに移りました。短期滞在ビザでそこに居るのですが、6ヶ月ごとに更新しなければなりません。ダブリンに小さな店を持っていて、商売はまあまあです。夫は、借金返済と子どもたちのために懸命に働かなくてはなりません。毎月送金してくれ、ほとんど毎日、子どもたちに電話してきます。私は少なくとも月に一度、夫が提出した家族同居申請書がイスラエル当局によって処理されているか問い合わせています。でも、これといって何の新しい情報もありません。最近で問い合わせたのは6週間前でした。夫は12月、クリスマスのころに私たちのところに来ることを計画しています。アイルランドの現在のビザが切れるころです。子どもたちと私はその日が来るのを数えています。待ちきれません。でも、夫がまた入国できなかったら、と心配もしています。もし夫の入国がまた拒否されてしまったら、私はどうなってしまうでしょう。そんなことが起こるかもしれないなどと考えたくもありません。


もし状況が変わらなければ、私たちが選択できる唯一の方法はブラジルへの移住です。ブラジルだけが私たちが家族としていっしょに住める場所です。けれど、そこに移住するとなるとたいへんです。子どもたちはそこの言葉がわかりませんし、ブラジルの経済状況はよくありません。それに、子どもたちは父親といっしょに暮らすために友だちと別れなければならず、親戚からも離れることになってしまいます。たいへん難しい選択になるでしょう。考えたくもありません。私自身、ブラジルでとても寂しい思いをすることになります。肉親や友だちはいないし、言葉はわからない。よそものです。子どもたちはブラジルのパスポートを持っているのでそこに住むことができますが、私は持っていない。ブラジルに入ればすぐ、夫は私のパスポートを申請しなくてはなりません。夫はダブリンでの商売を辞め、ブラジルで仕事を探さなくてはならない。簡単には進みそうもありません。


今年の夏、父親との時間を過ごせるようにと息子をダブリンに行かせました。父親の商売を手伝ったり、言葉を覚えたり、楽しんでいます。娘たちはうらやましがっていて、ダブリンに行きたいと言うのですが、子どもたち全員を行かせる余裕などありません。子どもたちは学業の成績がとてもよく、私は誇りに思っています。私がやっていけるのも子どもたちがいるからです。つらい時期が続いてきました。夫との17年間の結婚生活のうち、合わせて9年間を離ればなれで暮らしています。私たち夫婦の関係はもう以前と同じではありません。あまりにも長い時間を別々に生活してきました。将来のことが不安です。父親がそばにいることなしに育っている10代の娘たちのことが心配です。この社会でシングルマザーとしてやっていくのは容易ではありません。不安です。これからどうなるのか、私には何もわかりません」


この2年間で、西岸居住の家族に対し35000近くの家族同居申請がイスラエル当局によって認可されましたが、この中にはエルサレム居住の家族の申請はありませんでした。認可されたのはほとんどが、短期滞在ビザの期間を越えて滞留しなければならない場合や、パレスチナ身分証保持者と結婚している場合です。数十万人もの申請者がまだ、イスラエル当局の認可を待っています。


[訳注7] 
西岸への入国管理はイスラエルが行っている。従来、外国パスポートの保持者には、3カ月の観光ビザが発行され、このビザでイスラエルも、西岸も自由に移動ができたが、近年、「パレスチナ自治政府(PA)管轄地域のみ」と明記されたビザも押印されるようになった。この印を押されると、イスラエルはもちろん、イスラエルに併合された東エルサレムに入ることはできないだけでなく、西岸内の移動にも支障をきたすことになる。一般に「パレスチナ自治区」と呼ばれる西岸地区だが、そのすべてが「自治区」ではない。PAが行政および治安を管理している完全自治区(A地区)は西岸全体のわずか17%に過ぎず、8割以上は、行政をPAが、治安をイスラエル軍が管理するB地区(24%)、行政も治安もイスラエルが管轄するC地区(59%)に分断されている。「PAのみ」の印があると、西岸ではA地区にしか滞在できず、A地区からB地区、C地区へは行けないことになる。しかもA地区は、西岸全土に散在するため、B地区やC地区を通らずにA地区間を移動することは不可能であり、西岸内の移動に多大な困難が生じることとなる。
 
原文
A 2009 report on Israel’s human rights violations against Palestinian women
http://www.wclac.org/english/publications/book.pdf
 
(次号予告:シリーズ【3】後編 東エルサレムの居住の特殊事情の説明とその事例)