TUP BULLETIN

速報918号 シリーズ「パレスチナの女性の声」【4】家屋の取り壊し−5

投稿日 2011年6月16日

女たちの証言--占領下パレスチナで生きるということ


シリーズ「パレスチナの女性の声」はWCLAC(女性のための法律相談センター)の2009年報告書の翻訳です。スペィシオサイド(spaciocide、空間的扼殺)とも形容される占領下で、日常的暴力と人権侵害に苦しむ女性に対する聴き取り調査に協力した19人の女性の証言をお届けしています。

今回は、最終章「強制立ち退き」の証言19をお届けします。大家族で暮らしていた証言者マイスーンの家族は、パレスチナ難民のために建てられた家に住んでいましたが、イスラエル政府から強制的に立ち退かされ、20名の子どもを含んだ一家40人が路頭に放り出されました。しばらくは自分たちが住んでいた家の前にテントをはって路上で暮らす日々が続きましたが、やがて自分たちが住んでいた家にはイスラエル入植者の家族が引っ越してきました。

報告書はこのあと、いよいよ最終回に続きます。

シリーズ全体の前書き:岡真理、向井真澄/TUP (TUP速報869号をご覧ください)

翻訳:岡真理、キム・クンミ、寺尾光身、樋口淳子、藤澤みどり、向井真澄/TUP

パレスチナの女性の声シリーズの全体は以下のページでお読みいただけます。http://bit.ly/lYpBJz

パレスチナ女性に対するイスラエルの人権侵害報告書-2009年度版
シリーズ【4】家屋の取り壊し―5

強制立ち退き

WCLACはシェイフ・ジャッラーフ地域を含んだ東エルサレムで起きている強制立ち退き率(*1)の増加を深く憂慮しています。2009年8月2日、シェイフ・ジャッラーフ地域の家から二つの家族が強制的に立ち退かされました。1948年に難民になってから居住していたところからの立ち退きは、この近隣の多くの人びとや、東エルサレムのほかの地域に影響している、イスラエル入植者に場所を譲るためにパレスチナ人が立ち退かされている政策の実例となります。強制立ち退きのせいで、20名の子どもを含む40名がホームレスになりました。二軒の家は1956年にUNRWAとヨルダン間で結ばれた協定に基づいて約300人のパレスチナ人難民の家として建てられた27軒の建物の一部です。イスラエル政権の立ち退き命令の発行に従い、11月にパレスチナ人の4人家族の家がシェイフ・ジャッラーフの借家から立ち退かされたように、このような立ち退きは2009年末まで続けられました。同地域で新しいイスラエル人の入植のために200棟の建設が計画されていました。

もっと広い視野で眺めてみると、イスラエル住民の東エルサレムへの移動(シェイフ・ジャッラーフの実例のような)は、東エルサレムからパレスチナ住民を別の場所へ移しかえる政策と対になっており、占領下にある東エルサレムの人口動態を変化させる一体的な政策なのです。エルサレムの全人口の成長統計に基づき、2008年末の東エルサレムへの入植者人口は193,700人と見積もられており、約2,000人の入植者が2009年の始めに占領された東エルサレムのパレスチナ人地区に居住しています。既存の違法入植地の大幅な拡大と新しい入植地の創設は東エルサレムの5つの地区で計画されています。総計では、さらなる444軒の承認が待たれている間(92)にも、377軒の新しい住宅が建設中です。国際法の下では東エルサレムは1967年からイスラエルにより不法に併合されたパレスチナ領土の一部であるという理由から、このような建設は違法です。

強制立ち退きは住宅の破壊と同様に、市民的及び政治的権利に関する国際規約(ICCPR)(*2)、17条と経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(ICESCR)11条に違反します。さらに、入植は占領当局が占領した領土の住民の移動を禁止した国際人道法に反しています。

証言19
マイスーン・ムハンマド・ガーウィーの証言

シェイフ・ジャッラーフ/ 東エルサレム
2009年12月22日にインタビュー(面接、聴き取り)

「マイスーン・ムハンマド・ガーウィーです。43歳です。夫のナーセル・ガーウィーとは1986年に結婚しました。そのときからエルサレムに住んでいます。出身はラーマッラーですけれど夫がエルサレム出身でエルサレムの身分証を持っていました。夫と私は結婚後すぐに家族同居の申請書を提出し、3ヵ月後に私の申請書が承認され、エルサレムの身分証を受け取りました。私はエルサレムの住人になり、家族と一緒に住めるようになりました。80年代には、結婚によってエルサレムの身分証を手に入れるのは簡単でした。当たり前のように発行されましたけれど、今はエルサレムの身分証を取得するのはほとんど不可能です。いろいろなことがとても違うのです。

夫は病気です。結婚して3年後に病気になり、開胸手術を受ける必要がありました。そのために彼は普通の安定した職につくことができません。私たちの収入は限られています。夫の父は難民です。彼は1948年に、後にイスラエル国家になったサラファンド・アル=ハラブという村を追われ、家族で難民として東エルサレムにやってました。財産だったオレンジの果樹園や家も失いました。1956年、彼と家族が食糧援助、健康管理と教育援助を受けていたUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)は、UNRWAから食糧の供給と健康と教育支援を受け取らないことに家族が同意すれば、シェイフ・ジャッラーフ近郊に住宅を与えてくれるという取り決めを持ちかけました。夫の父と家族は、幸運にもこのプログラムへの応募要件を満たす他の28家族と一緒に同意しました。

夫はUNRWAが彼の父に提供してくれたシェイフ・ジャッラーフの家で生まれました。義父は家の周りに囲いをつくり、電気と水が来るようにしました。義父はこれを手入れしてよい状態を保っていました。取り決めには、いずれは住宅を家族の名前で登記するとのUNRWAとヨルダン政府の約束も含まれていました。不幸なことにこの約束が果たされる前に1967年の六日戦争が起ったのです。ヨルダン政府が協力的でなく、本気で約束を果たすつもりがなかったのだという人もいます。

夫と私は結婚してからずっとこの家に住んでいました。大きな家で、全部で8家族40人が住んでいました。87歳の義父、義兄弟のハーレドと4人の子ども、もう1人の義理の兄弟ムニールと妻、そして6人の子ども、三人目の義兄弟フアードと妻、ジュマアと妻と2人の子ども、ハミースと妻と7人の子ども、独身のジャマールと義姉妹のイターフと2人の子ども、それに夫と私と5人の子どもたちです。家には私たちの全部の子どもがいて強制的に立ち退かされた今年の8月2日まで住んでいました。ひどいものでした。あの日に起こったことは絶対に忘れません。

2009年8月2日の早朝4時30分に、10人の重装備したイスラエル警察が家に押し入ってきました。それはまるで一個大隊全体が家に入ってきたような感じでした。彼らは黒い制服に身を包み顔にはマスクをかけていました。

脚には金属の防具まで着けていました。私はそのときベッドでまだ寝ていました。警察官の1人が私の腕をつかみました。怖かった。子どもたちのことがとても心配でした。それから警察官は私の腕を放したので、私は隣で寝ていた息子のアダムと娘のサラをつかみ腕に抱えました。警察官のグループは私を家から隣の家へ押し出しました。恐怖で震えました。他の子どもたちがどこにいるのかわかりませんでした。子どもたちから離されていました。4時間後、もう1人の息子が怪我をして血を流しているのに気がつきました。後で息子が話してくれましたけれど、でん部を強く蹴られて気づいたときには路上にいたそうです。胸が張り裂けそうでした。その後、私は家に戻って正式な書類、出生証明や身分証明書などをとってきたいと兵士に頼みました。電話と車の鍵も持ってきたかったのです。私たちはそんな風に急に強制的に外にだされたのでそういった物を持ってでるチャンスもありませんでした。最終的に一家族に1人だけ家に戻ることを許されました。

彼らはジャーナリストが近づけないようにしていました。私は必死になって家に戻ることを心に決めジャーナリストに話すために隣の家からのり越えました。その瞬間は私を捉えていた最初の恐怖に打ち勝ったように感じました。自分の家に帰るためにものすごいエネルギーを使って決心したのです。ジャーナリストと話して、残った子どもを見たときはほっとしました。

家を強制的に追い出されてから私たちは家の前に張ったテントで暮らしています。この74日間のほとんど、夫はそこで横になり、私はテントの前で座っています。近所の人が飲み水と洗い物用の水をくれ、彼らの家のトイレを借りています。小さな子どもたちは木の下で用を足しています。一番下の娘と三人の兄弟は道端で行水させています。木に毛布をかけて、火をおこして大きな鍋に湯をわかし、娘の体を洗うのに使っています。入植者の家族が私たちの家に引っ越して住んでいます。そのなかには子どもたちやお腹の大きな女の人がいて、家に出入りするのを見ます。一度、入植者の一人がそばを通りがてら私に「ガザに行け、ヨルダンに行け」と言いました。挑発的で侮辱的な入植者の言葉は日課の一部になりました。ちょうど寝つこうとするとき、夜中に入植者がテントを攻撃してきて私たちを怖がらせることがよくあります。一日に3時間か4時間しか眠れていません。常に疲れ果てています。家の前に現れる警察官と兵士は入植者が嫌がらせをするのを止めようとしません。車のなかに座って見ているだけです。実際、彼らは私たちを守るのではなくて攻撃し、嫌がらせしているのです。
私たちがテントを張ってから今までに8回も取り壊されています。

立ち退かされて以降、家に住んでいた家族の何人かが、逮捕されたり、尋問を受けたり、この地区の出入りを禁じられたりしています、私を含めてです。私は近くの交番所に、尋問のため夫と共に呼び出されました。私の下の子どもたち、サラとアダムも連れて行きました。入植者のリーダーの一人が彼を攻撃したと私を訴えたのです。指紋をとられDNAテストもされました。
彼らは私の口の中から細胞サンプルをとりました。夫と私は保釈金としてそれぞれ5000シェケルを払うようにいわれました。

入植者は私たちの家が建てられた土地は大昔にユダヤに帰属していたと主張しますが、証拠となる文書を法廷に提出することができません。この土地は自分たちのものだと入植者が主張していることを初めて聞いた2002年から、立ち退きを恐れながら暮らしていました。2002年4月に立ち退き命令が手渡されました。私たちは静かに家を明け渡し、六ヶ月にわたって道路わきにテントを張って暮らしています。でも家が私たちの物でないと裁判で証明できなかったので、警察が私たちの家にかけた鍵を壊して家に入りました。裁判には大変な時間がかかります。判決を先延ばしにしているのです。2008年に私たちには別の立ち退き命令がだされました。2009年7月28日に4台のジープにのってイスラエル軍が私たちの家の前にやってきました。午前11時に私たちの家にきて、私たちは一ヶ月以内に立ち退かされるといい、通知を手渡しました。それから数日後に私たちは立ち退かされました。

立ち退かされた直後にパレスチナ当局は私たちにホテルの部屋を借りてくれました。家族の皆が一つの小さな部屋にいなければなりません。路上にいるよりもましですけど慣れるのは大変です。プライバシーなんてありません。子どもたちには遊んだり宿題をしたりする空間も十分にありません。パレスチナ当局に助けてくれるよう何度も繰り返し頼んだ結果、アパートを一年借りてくれるとようやく申し出てくれました。これは私たちが路上で3ヶ月もテント暮らしをした後です。エルサレムの小さなアパートの賃貸料は少なくとも月に800ドルはかかります。どうやってやりくりすればいいのかさっぱりわかりません。新しい家に必要なものや家具を少しずつ買っています。収入は少ししかないのです。

子どもたちのことがとても心配です。学校でもうまくやっていけません。宿題に集中することができないのです。三年生になる息子のアブドゥッラーは警察がテントを取り壊した日は宿題を学校に持っていくことができませんでした。息子のムハンマドは家に帰って住めるようになるまで学校にいくことを拒否しています。アダムは学校で多くの時間、泣いてすごしています。彼は一人になりたがり、先生と一緒になにかすることができません。普通のクラスに協調できないので最近障害児のクラスに移されました。生きていくのは大変で将来何が起こるかわかりませんが誰にも同情して欲しくありません。望んでいるのは自分たちの家に戻って暮らせることだけです。」

*1 国際人権法の下では、強制立ち退きは「家そして/また占領した土地から、準備、または法的に適切な手続きまたはその他の保護へのアクセスなしに、個人、家族、そして/または、共同体の意志に反して永久的または一時的な移動。経済的、社会的および文化的権利に関する国連委員会、一般的意見第7号、居住の権利」と定義される。強制退去、1997、国連Doc E/1998/22 付属IV、国連OCHA被占領地パラ.3.88、Hyumanitarian Monitor、2009年11月、http://www.ochaopt.org/ にて閲覧可能

*2 市民的及び政治的権利に関する国際規約(ICCPR)17条:何人も、その私生活、住居に対して恣意的に若しくは不法に干渉されされない、そして干渉又は攻撃に対する法律の保護を受ける権利を有する。

原文:

A 2009 report on Israel’s human rights violations against Palestinian women
http://www.wclac.org/english/publications/book.pdf

(次号予告:シリーズ 最終回