TUP BULLETIN

速報840号 ソマリア系カナダ人ラッパーが語る、祖国ソマリアのこと

投稿日 2010年1月15日

 ◎内戦とは、海賊とは、そしてソマリア人としてのアプローチとは。




17年も続く内戦で、飢餓人口は380万人にも膨れ上がり、この半年の間に140万人が国内難民になったといわれるソマリア。自爆テロや海賊という言葉が結びつきがちなソマリアに対して、日本では海上自衛隊が派遣されています。しかしソマリアの現地の声を聞く機会に恵まれることはあまりありません。

ニューヨークの独立系放送局DemocracyNow!で昨年8月に行われたインタビューから、ケイナーンの声をお届けします。ケイナーンは幼いころに内戦のソマリアを出て、カナダ/アメリカでラップミュージシャンとして活躍しています。内戦の痛み、同胞への、そして祖国への想いが、彼のラップミュージックにこめられています。

(前書と翻訳:金 克美/TUP) ※凡例: [訳注]

 

インタビュー公開 2009年8月6日
http://www.democracynow.org/2009/8/6/somali_canadian_rapper_knaan_on_journey

エイミー・グッドマン: ヒラリー・クリントン国務長官は11日間の日程でアフリカ七カ国を訪問しています。二日目にあたる今日はケニアの首都ナイロビでソマリア大統領シェイク・アフマド・シャリフと会見します。私たちは戦争で荒廃した国ソマリアからまた別の声を聞いてみましょう。

ケイナーンはソマリア系カナダ人のヒップホップ・アーティストです。ソマリアの首都モガディシュで生まれ、幼い頃、国中を巻き込んだ内戦から逃れるためニューヨークへ渡り、その後トロントに移住しました。彼の初アルバム「The Dusty Foot Philosopher[裸足の哲学者]」は批評家から賞賛されました。最新アルバムは「トルバドゥール[吟遊詩人]」です。

さてクリントンがソマリア大統領と、安定と治安について話し合う準備をしているなか、私たちも政治的意識をもつ若いミュージシャンであり詩人であるケイナーンに注目し、彼の人生や音楽、そして米国の政策が祖国ソマリアに及ぼした影響について話をうかがいます。ケイナーンが今月はじめにニューヨークに来た時にインタビューを行いました。彼は、金曜の夜にジョーンズ・ビーチ劇場で歌うため戻ってきています。ではケイナーンさんのお話しをどうぞ。
[訳注;この放送は8月6日。コンサートは放送の翌日、7日でした。]

ケイナーン: 僕はソマリアのモガディシュ生まれで、生まれた頃はそれなりに平和でした。

エイミー: 何年ですか?

ケイナーン: 70年代の後半です。僕のいた環境は信じられないくらい美しくて詩的でした。祖父は国の代表的な詩人の一人です。叔母はたぶん、ソマリアの歴史を通じて最も有名な歌手です。僕は芸術家や脚本家や詩人が何人もいる家族に囲まれて、海のそばで育ちました。ソマリアにはアフリカで一番長い海岸線があります。家族は素晴らしい時間を過ごしていました。僕が9歳の頃までは。ちょうど内戦がはじまった時です。

内戦が広がり、社会構造を支えていた命綱が切れたように崩壊が始まりました。三年ほどそのような状態を生き延びました。そして13歳頃に出国したのです。僕たちは本当にとても恵まれていました。国が完全に崩壊してなにもかもが止まってしまう寸前に、最後に運行された民間機のひとつになんとか乗れて、ニュ-ヨークに来ることができたからです。

エイミー: お祖父さんと叔母さんも一緒に?

ケイナーン: いいえ、祖父は国中が内戦に呑み込まれてしまう少しまえに他界しました。叔母は国に残った。彼女も後に亡くなりました。でも、まあ、僕らはどうにかニューヨークまで来ることができて、それからトロントに移り、 そこで自分の経験してきたことについて音楽をつくり始めたんです。

エイミー: シアド・バーレは長期にわたる独裁者で、長いあいだ合衆国に支持されていました。

ケイナーン: ええ。

エイミー: 彼の影響があなたの国に何をもたらし、今日どういったところにその影響をみることができるでしょう?

ケイナーン: アフリカの多くの武装革命家たちのように、シアド・バーレは最初は英雄として現れました。彼はクーデターで権力を握り、国に変革を起こして氏族制度を取り除こうとした。何千年も存続してきた政治的な氏族制度をなくせると考えたのです。

やがて何か、つまりある方向転換が起き、こういう輩によくあるように、彼も変わり始めました。被害妄想に取り憑かれてほとんどすべての自国民に敵対するようになり、自分自身の氏族、正確にいうと親族だけを身の回りに置いたのでした。

彼は国に対してとてつもない影響を及ぼしたと思います。ほとんどの国々との関係を悪化させたからです。あのとき何の利益もなく、必要もなかったエチオピアとの戦争を始めた。あげくに国が崩壊し始めるようなありさまになり、ついに内戦が起こりました。

エイミー: ここ、合衆国に慣れるまでの過程はどのようなものでしたか?音楽のこと、そしてどのように成長して今のあなたになったのかをお話しください。

ケイナーン: そうですね、僕が最初の曲を書き始めたのはソマリアでの経験があったからです。あの経験が、ふとよみがえってきては思いもよらない形で僕を苦しめた。それで心的外傷後ストレス症候群という症状だと診断されました。でも母は西洋医学を信じていません。僕が投薬治療を受けるのを嫌がった。だからどうにかして切り抜ける方法を自分で考えださなきゃならなかった。なので最初に書いたメロディや詩はそういうことにどうやって対応してきたかという直接の経験を表現しています。だから成功なんて期待していなかった。ただ歌を通して切り抜けることができたらいいと考えていただけです。

エイミー: その歌をどれか覚えていますか? すこし暗唱できます?

ケイナーン: ええ、こんな歌がありました。

僕の悲劇は違うんだ
僕の人生は耳を澄ますこと
逃げ出さなきゃ、でも進めない
地獄の街を抜け出したのに
なんで抱えているんだろう
僕の過去はすべて
理不尽で僕の・・・

これは全部、その、この歌は僕の――僕にとっては書くのがとても難しい日々や時間や場所のことでした。「頭の中の声」という歌がありますが、それは実際に心的外傷後ストレス障害[PTSD]についての歌です。

エイミー: PTSDでどのような症状がありましたか。

ケイナーン: 欝になったり、精神的に脆くなったりするんですね。ちょっと待て、いったい何が起ってるんだ、と考えはじめるんです。いろいろなことがバラバラに壊れていく。そして引きこもるようになりました。何カ月も一人で部屋にこもったこともありました。

エイミー: どうやって抜け出せたのですか?

ケイナーン: 作品が次第に出来上がってきて、書いたものを友人が聞いてくれたり、少し音楽を演奏をするようになってから、かなりよくなりました。メロディにはとても助けられた。結果的にこれらを録音したものがいくつかの曲になって、それらの曲がアルバムになった。それが僕の「The Dusty Foot Philosopher」という初アルバムで、いくつかの賞を取るようになりました。僕はとても恵まれていて、ツアーを開始しました。

エイミー: どうやって英語を学びましたか?

ケイナーン: 変わった方法でした。独学のようなものです。学校にあまり興味がわかなくて、というのはひどい目にあったから。学校に通い始めて最初の二日で、第二言語としての英語の担当者であるはずの先生に出会いました。その先生が「ケイナーン、なんとか、なんとか、なんとか」と僕に英語で言う。僕は返事ができない。クラス全部が僕の返答を待っている。彼女を見ると、もっと大きな声で繰り返して何か言っていた。僕はソマリア語を話す友人に向かって言いました。「誰かこの人に言ってくれないか。僕は耳が聞こえないんじゃなくて、英語が話せないだけだって」

そのすぐ後、僕は学校を辞めて歌を通して自分で英語を勉強し始めた。ヒップホップ・レコードを選んでフレーズを聞いて、独学でその意味を習い始めた。それと、テレビや会話を通して。

エイミー: ケイナーンという名前はどこから?

ケイナーン: 実は本名です。僕の名前ほど創造的な名前は思いあたらなかった。ソマリア語で「旅人」という意味なんです。

エイミー: ご両親がつけたの?

ケイナーン: そう。

エイミー: あなたにとって、合衆国からみたソマリアはどのように見えますか? あなたのソマリアでの経験と比べると、どうですか?

ケイナーン: ソマリアは、今はザラザラしてみえる。ひからびてしまったように。人生のポケットからこぼれ落ちた感じです。それは、止まっているみたい。故郷にいる時は色が鮮やかだった。サファイア色の空が赤く染まり大地にすいこまれていく、変わっていく地面の色合い、色の魔法、そして海は青く、白い砂浜。すべてがとても、とてもカラフルで活き活きとしていた。いまはそれが白黒に変わりました。

エイミー: ソマリア系カナダ人ラッパー、ケイナーンさんです。ブレイクのあと、お話しを続けます。

ブレイク(ケイナーン「ピープル・ライク・ミー」の演奏)

エイミー: ケイナーンさんです。この消防署スタジオで「ピープル・ライク・ミー」を歌ってくれています。合衆国、そしてカナダに渡ってくるときに、ソマリアに残してこなければならなかった愛する従兄弟を歌った曲です。

こちらはデモクラシーナウ!democracynow.org 「戦争と平和レポート」のエイミー・グッドマンです。それではケイナーンさんのお話しに戻りましょう。クリントン国務長官がソマリ大統領と会見しているなか、私たちはソマリア系カナダ人ラッパーと、米国のソマリアに対する政策や「ブラックホーク・ダウン」や海賊、アメリカのヒップホップ、そして彼の新しいアルバムについて話します。ではインタビューの続きです。

エイミー: 多分あなたも読んでいるでしょうけれど、少し前のニューヨークタイムズ紙日曜版の一面に、ソマリア系アメリカ人がソマリアに戻り、祖国のために西側と戦うと、自分たちはそういうことをしているんだと彼らは思っているという記事がありました。これについてどう考えますか?

ケイナーン: ソマリア人じゃない人には考えられないことでしょう。どうしたらそうなるのか理解するのはとても難しいでしょう。この運動では、実際にソマリアでの経験がなく、ましてここで生まれたような若者たちが合衆国を離れソマリアへ行き、米国がテロリストとレッテルを貼っている武装グループのために戦っているのだと考えている人が多くいます。彼らを駆り立てるのは宗教的な要因じゃない。もしそれが宗教的なことだったら、とっくに起っていたはずだから。宗教は関係ない。駆り立てているのは国民感情です。彼らの多くが考えたのは、エチオピアが合衆国に支援されて侵略してきたために・・・

エイミー: イスラム法廷会議が倒された。

ケイナーン: その通り。いうならば、ソマリアでこの20年間で唯一それなりに平和な時期があったのですが、それが壊されたのでした。ソマリアではそれまで全くなかった攻撃性が現れました。ソマリアはとても文化的な国です。穏やかな国です。イスラムの国です。でも、あのような好戦性は持ち合わせていませんでした。それが見られるようになったのは、国を整えた聖職者のグループであるイスラム法廷会議が崩壊した後からのことです。ソマリアに戻った若者たちは、自分たちの国を守るために戦っていて、エチオピアが彼らの国に侵入していたと確信していました。そして、それは本当のことです。

エイミー: 合衆国のアフリカに対する政策をどう思いますか? 特にソマリアについて。あなたが言ったように米国がエチオピアを支援して国家の安定を崩壊させたと?

ケイナーン: そうですね、合衆国の政策は世界の様々な国でそうだったように、複雑で難しく結果的にそれらの場所を破壊する原因になったと思う。そして不幸にもソマリアは例外ではなかった。

ソマリアに対する米国の政策は、米国のためにできることをやってきたのであってソマリアの人々のためには何もならない。というわけなので、米国はいつもソマリアの、またはソマリアの人々の意志をまったく実現しない人々と手を結ぶ道を採っていた。

さっき言ったように、相対的に平穏な時期がありました。軍閥の長たちがイスラム法廷会議という名称のグループによって国から追い出されていた頃のことです。そしてたぶん名前がそうだというだけで、米国は「これはうまくないぞ」と考えたのか、この国で18年間おびただしい破壊を繰り返してきた5つの軍閥の長たちと手を結んだ。「平和回復のための連合」と呼んでね。これは米国が名づけました。そしてこれらの軍閥の長が戻って来てもっと破壊し始めた。なので、米国がソマリアにどういう影響を与えてきたのかと歴史を振り返らなくても、近年をみるだけでも素晴らしかったとはとうてい言えない。

エイミー:  オバマ大統領、この国で初のアフリカ系アメリカ人大統領について、あなたの考えは?

ケイナーン: 驚くべきことだと思います。常にそうであるように、オバマの当選はオバマが大統領として何を成すかによって将来評価を受けるでしょう。でもそれ自体、彼が選出されたことそのものは否定できないと思うよ。あの時あの瞬間、なんとかしてアメリカの政治が正気を取り戻そうとしている兆候だと、とにかく、世界の目にはそう映った。「ちょっと待て。アメリカが再び正気になれるぞ」ってね。

エイミー: 現在、海賊といえばソマリアを思い浮かべる人が多くいます。公海上での海賊行為が米国で注目をひいています。

ケイナーン: そうですね。

エイミー: 何が起っているのか説明できますか?

ケイナーン: ざっとやってみましょう。ソマリアでの海賊行為はかなり最近のことで、それが起るには理由がある。正当化するのではないけれどそれなりの理由があるのです。1991年のシアド・バーレ政権の倒壊以来、西洋諸国の主要な国々がソマリア水域で船を運航し続け、不法な漁を行って年間3億ドル以上の魚を盗んだだけでなく、沿岸に有害な核廃棄物を投棄し続けていました。

ソマリアの報道機関は、この問題が起きて以来ずっと記事を書き訴えてきました。そして津波に襲われた後に、多くのコンテナーがソマリアの海岸に打ち上げられ、実際にコンテナーの積まれていたものが直接影響して人々の死因になりました。海岸線に住む、約400人の村人がそれらの問題で亡くなりました。それで漁師や元漁師、元沿岸警備員、民兵もみんな一緒になって海に出た。これがみなさんのいう海賊の起こりです。彼らは、おおかた西洋からきた犯罪者たち、重大な海賊たちを追い払っていたのです。そしてやがて彼らの行為がちょっと制御できなくなって、飢えた人々も海に出るようになった。

エイミー: それを変えるのは何だと思いますか?

ケイナーン: 文化的な解決策です。強大な武器でソマリア人を脅せるとは思いません。文化がそのようには働かないからです。歴史を見ると、植民地化以前からずっとソマリアは戦争を決して恐れなかった。大国を恐れたことはなかった。サハラ以南のアフリカで最も長期間、反植民地戦争をした国です。だからソマリア人には外敵の脅威を跳ね返すなにかがあります。

今、一つだけ、解決に向けて実際に効果があるかもしれないのは、僕たちの文化的なシステム、氏族システム、年長者制度です。水域のあらゆる海賊グループには基本的に帰属する一族があります。いま、ソマリアとその水域、僕たちの領土に対する犯罪がきちんと調査され、これ以上続くことがないと氏族の長老たちを納得させられれば、各氏族は名誉にかけて男たちを海から上がらせるでしょう。

エイミー: ここに連行された若者について補足していただけますか。

ケイナーン: ええ、はい。目の当たりにするのは悲しいことでした。ソマリア人なら、到着したときの彼の様子の文化的な意味がわかる。たとえば、彼が笑みを浮かべていたこと。何を話してるかわかるよね。アメリカでは多くのひとが「あの笑みはなんだ?」思う。だけど彼はソマリア人だから、世界が注目しているときに陰気な顔をしていることは、彼にとっては礼儀正しいことじゃない。大変な問題に直面していることをわかっていても。彼は十代です。それが彼にできる最善のことで、つまり微笑んだり、とかね。

エイミー: 米船を乗っ取った若者たちの生存者ですね。

ケイナーン: そうです。

エイミー: 他の者は殺された、

ケイナーン: そう。残りは殺された。

エイミー: ヒップホップについて、そしてそれがどういう意味を持っているかについて書き、歌っていますね。

ケイナーン: そうですね。

エイミー: ヒップホップはいまどういう役割を果たしていますか? それはどのように発展していますか?

ケイナーン: ヒップホップの強みは、ヒップホップ以外のメジャーなマスメディアや大衆文化に近づけないような共同体のジャーナリズムで常にありつづけたことにあると思います。そして、そのようなものである限り、意義のあるものであり続けるでしょう。でも長い間、ヒップホップは企業の利益に支配されているので、ここ最近出回っているものはむしろ、もっとモノを、もっと生産するために使われてきましたけれど、ちょうど僕がやっているように、これが持たざるものから生まれグローバルになっていくと、何らかの方法で意味のあるものとして続いて行くと思います。

エイミー: ケイナーンさん、「What’s Hardcore? [ハード・コアって何だ]」についてお話しください。

ケイナーン: 僕の曲です。「What’s Hardcore?」は、たくさんの状況を比べるような、まあ、多くのラッパーは世界中のどこにもあるような葛藤を経験しているけれども、多くの人がある種の態度で彼らが経た困難を賛美する傾向があります。僕らが育ったところは、そういう困難からはほど遠いほど酷かった。格好つけるわけじゃなくて。そして、曲は彼らと僕らの経験を並べて「what is hardcore?」何がハードコアなんだと問いかけて、それに答えるようにしたんです。

で、ハードコアってなんだ? お前はほんとにハードコアなのか?
で、ハードコアってなんだ? お前はほんとにハードコアなのか?
俺らの一日は銃の作法ではじまる
立ち向かいなんかしたら携行式ロケット弾で吹き飛ばされ
警察も、救急車も、消防士もいない
タイヤを燃やし暴動を起こし
略奪し、撃ち合いを始める
政治家は解決策を口にはするけど、言ってるだけ
バリケードで半ブロックも進めない
バリケードで金が払えなきゃ、喉元を撃ち抜かれる
ひとつ一つのバリケードはキャングが設け
ギャングによってやり方が違う
たとえば夕方は行けない
ロゴをまとうように銃弾を撃ち込まれたくなけりゃ
日中には路地を選んじゃいけない
効き目があるのはAKライフルだけ
やつらはジャドを噛む、それはコカの葉っぱのようなもの
そこには警察なんていやしない
で、ハードコアってなんだ? お前はほんとにハードコアなのか?
で、ハードコアってなんだ? お前はほんとにハードコアなのか?

エイミー: 1993年のブラックホーク・ダウン。米軍が上陸し18人の米兵犠牲者がでました。当時、どれだけのソマリ人犠牲者がでてそれがどう影響しているか話していただけるでしょうか。そのときは現地にいましたか?[訳注:「ブラックホーク・ダウン」は2001年に封切られたアメリカ映画のタイトル。同名の原作は1999年に出版。ソマリアの首都、モガディシュで起った市街戦を描いており、後日「ブラックホーク・ダウンといえばモガディシュの戦いを指す言葉として一般に使われるようになった。]

ケイナーン: いいえ、僕が国を出た後です。戦争の寸前に出発しました。そう、それは、いつ始まったのか、そして何が原因だったか覚えています。何がそれを引き起こしたのか、それは。ご存知でしょうが、アメリカは大いに歓迎されていました。どうやって部族同士の戦いに解決の方法を見つけるか、よし、自分たちで問題を解決できないのなら誰かに働いてもらおうとソマリ人は考えていた。なので米国が上陸したときは拍手やらなんやら大喝采だった。

米国が到着したときの写真を覚えている。海軍が、警備隊が自分たちの到着を仕切っていた。それで僕は思ったんだ、これはよくない、これは何かを引き起こすってね。ソマリアの少年の頭を足で抑えて銃を高く掲げた米兵の写真があった。彼らが到着して二日後のことだった。それでその写真だ。ソマリア人だから、それがどんな意味を持つか僕にはわかる。

それは文字通り――その写真はモガディシュで発行された、それは文字通り戦争という意味さ。それは対話を意味しない。それで、到着したときからそれは失敗を運命づけられていたことが僕にはわかる、わかってた。それから続いた出来事で、多くの人が死んだ。多くの――米国は数人を失ったけれど、だけど僕たちはもっともっと多くの人たちを失った。それは…

エイミー: 何千人も。

ケイナーン: 何千人、そう。ソマリアでは一万人以上と言われているけど、本当の数字なんて発表されない。あなたたちが撃ったのはただの黒い点だった。それは――映画のなかでさえそういうように表現されていた。

エイミー: 「トルバドゥール[吟遊詩人]」について話して下さい。

ケイナーン: 「トルバドゥール」は僕の最新アルバムです。2月に発売されて、ここで驚くほど成功している。発売と同時にビルボードのトップ30にランクされました。僕はあのアルバムをジャマイカのボブ・マーリーの家でレコーディングしました。彼の家族が僕にその恩恵を与えてくれて幸いでした。

エイミー: どうやって彼らと出会いましたか? どうやって知り合ったの?

ケイナーン: 僕はボブ・マーリーの息子たち、ステファンとダミアンと一緒に何年かツアーをしていました。彼らは僕の音楽に明かりを照らす松明を掲げてくれて、北アメリカでの支持者です。そしてこのたくさんの異なる経験について語ったこのアルバムをレコーディングしました。僕はほんとに音楽をやるためには恵まれた環境にいます。

エイミー: この中であなたのお気に入りの曲は?

ケイナーン: それは難しい。アーティストがお気に入りを持つって難しいというときはほんとに難しいんだよ。自分で曲を書くから、一つ一つの曲と結びつきが強くて、まるで曲を選ぶ時は自分の子供たちの中から一人だけ選ぶような感じです。だけど、このアルバムの中で最も広範囲の人に届く曲は「Waving Flag[風になびく旗]」という曲になると思います。メロディーの中に何か、ぐっとくる感じがあって、出会ってしまったという感じがする、そのような曲です。

エイミー: それではその曲をどうぞ。

ケイナーン:
僕が大きくなったら、もっと強くなるだろう
人は僕を自由と呼ぶだろう、まるで風になびく旗のようだと
玉座に就くべく生まれ、ローマ帝国よりも強い
だけど暴力がちな、貧民街
だけどこれが僕のふるさと、僕が知るすべて
僕が育ったところ、歩き回った通り
暗闇から抜け出て、一番遠くまできた
最も厳しい生存競争のなかで
街頭で学ぶこと、冷酷かもしれない
敗北を受け入れない、退却はやめよう
そうして僕らは食べるために苦しみ戦い
いつになれば自由になれるのだろう
我慢強く待っている、そんな運命の日を
それはそんなに遠くないけど、いまはこう言うんだ
僕が大きくなったら、もっと強くなるだろう
人は僕を自由と呼ぶだろう、ちょうど風になびく旗のようだと
そのときそれは還っていく、そのときはそれは還っていく
そのときそれは還っていく、そのときそれは還っていく
僕が大きくなったら、もっと強くなるだろう
人は僕を自由と呼ぶだろう、ちょうど風になびく旗のようだと
そしてそれは還っていく、そしてそれは還っていく
そしてそれは還っていく

エイミー: ソマリア系カナダ人ラッパー、ケイナーンのインタビューと消防署スタジオでの演奏でした。のちほど、ウェブサイトでフルバージョンの曲とインタビューをお楽しみいただけます。今日、8月7日金曜日、ニューヨークのジョーンズ・ビーチ劇場で公演があります。トラビス・コリンズとラー・カンペニの協力に感謝します。