TUP BULLETIN

速報327号 拘束された豪州女性の手紙No.4 04年6月24日

投稿日 2004年6月24日

DATE: 2004年6月24日(木) 午後6時10分

《豪州NGO女性ドナのファルージャ拘束報告No4》
 


イラクのファルージャでは、米軍の包囲網作戦が2004年4月5日から、4 月の末に米軍が複数の陣地から撤退し始めるまで続いていました。11日には 「一時停戦」が成立したとはいわれたものの、実際には激しい戦闘が行われて いました。そんな中、オーストラリア人女性ドナ・マルハーンさんは、4月1 3日に3人の外国人同行者と共に、戦火の中、救援活動のためバグダッドから ファルージャに向かいました。その帰り道、ファルージャ郊外で地元ムジャヒ ディンに20数時間拘束されました。その顛末を、8本のメールにしたためた マルハーンさんの文章を紹介します。本稿は、その4本目です。戦争とはどん なものなのかを知る手がかりになればと思います。

翻訳 TUP/福永克紀 (翻訳・再配布了承済み)
 


 ファルージャ4:捕虜になった ドナ・マルハーン 2004年4月26日

長老との話が終わったあと、どうやら手伝い用に私たちが使える車は見つかり そうにもないことも分かってきた。時間もおそくなってきたし、通りを走る車 も用心深げに走るのが見てとれた。間に合ううちに帰ったほうがいいとも忠告 された。

みんな同意した――もし、これ以上できることがないのなら、ファルージャの 町の境界外では、危険な難しい旅になりそうだと分かっている以上、早く出発 したほうがいい。どのグループがどの道路を支配しているかも分からないの で、私たちの運転手エマドは賢明なルート選択をしなければならなかった。

今思えば、彼はそうしなかったようだ。町の端まで行って、それから埃っぽい 寂しげな道へと進んだ。一台の車も見えず、怪しげなほど空っぽの道だった。 ある建物のかげに狙撃銃で道路を支配下におくアメリカ軍がいると、エマドは にらんだ。車をとめた彼は、車から降りて、両手を上げて兵隊がいると思える ほうに歩いていった。そして、彼らに呼びかけてこう言った。「私たちは、 ファルージャから出て行こうとしている報道と救援隊のものですが、ここを通 してもらえますか?」

彼が、あまりに遠くまで行ってしまったので、私たちは、少し無防備になった ように感じ始めた。4人の外国人――オーストラリア人と2人のイギリス人と アメリカ人が、戦争中の町の郊外で舗装もしてない道に止まった車内に座って いる。後ろのもう一台にはイラク人女性通訳のアクラ。

アメリカ兵の返事は銃撃だった。頭をぐっと下げたが、本当にこちらを狙って きたのかはわからなかった(2度目よ)。それから、更なる銃声が空気を引き 裂いた、しかし今度は反対方向からだった。

胃が痛み出した。銃撃戦に巻き込まれたのだ。

頭を下げている以外、どうしようもない、まああまり違いは無いけれど。もし 車に当たれば、頭を下げていようがいまいが弾丸は鉄板を打ち抜き私たちをず たずたにしてしまうだろう。このイメージが一瞬頭にちらついたが、それに 浸っているわけにはいかない。とにかくここから脱出しようということになっ たが、一体あのヘボ運転手はどこに行ったのか。デーブが前の助手席からにじ り寄ってハンドルをつかんだ、頭は下げたままだ。ともかく彼は車をバックさ せ回転させて町のほうにゆっくりと向かいだした。片手運転で、ダッシュボー ド越しにのぞきながら。私たち女3人は後ろでお互いの膝に顔をうずめて抱き 合っていた。

飛び交う弾丸の危険からのがれたかと思う頃、私たちはゆっくりと頭を上げ た。

ハロー? 重武装のイラク戦士の一団、ここではいわゆるムジャヒディンが私 たちを待ち受けていた。最初、私はほっとした。「神様、おかげで銃撃戦から 抜け出せました」と考えた。

しかし、スカーフを巻いているので顔の見えない男が、ロケット発射筒を私に ねらいを定めていることに、私は気づいた。私たち全員がねらいをつけられて いたのだが、私には自分だけのように思えた。それは、彼の肩から突き出され た長いぴかぴかの金属製のものだった――あんまりよろしくはない。それから 気付くと、私たちの車は驚くなかれ武器を車内に向けたスカーフを巻いた男た ちに完全に取り囲まれていたのだ。

次の瞬間、私たちは本能的な行動をとった――両手を上げて武器を持たないこ とを示し協力の意思を示すこと。一人が助手席に飛び込んできて、まっすぐ行 けと身振りで示した、家の後ろへ、そして止まれと。

車から降りるように身振りで示された。エマドが急いで戻ってきていて、アラ ビア語で私たちが何者で何をしていたのかを説明しているのが分かった。同時 に、さっきのロケット砲の男がまだ私たちの方を狙っていることにも気がつい た、やっぱり気が沈むものだわね。

エマドが問題を解決してくれることを期待したが、この兵士団は彼を知らな かったし、私たちが何者かも分からないので調べる必要があった。彼らにとっ ては、私たちがスパイだということが十分ありうるわけである。

男たちは私たちを別の車に押し込み、人気も無い町を走り出した。この時点で は、私は捕虜になったとは思わなかった――私たちにいろいろ聞いたあとに は、お茶の一杯も出してくれて、それで私たちは帰り道につけると判断してい た。わたしは、パニックに陥りやすいタイプではない。何事にもおびえたり怖 がったりしたことはない。私は信仰に基づく楽天主義者である、だから、ロ ケット筒がもう私を狙っていないことに安堵して、落ち着いて車に乗ったの だった。次に実際何がおこるか定かでない以上、不安定要素はあるものの、そ れにこだわるのはやめておいた。「お茶が、待ち遠しいわ」、運転手の股には さまれた手榴弾を無視して、そう考えていた。

家に着いたとき、どう考えたらいいのか分からなくなった。

水をあてがわれると、エマドの声が聞こえた。「飲んでおいたほうがいい、こ の次いつ飲めるか分からないよ」

「どういうこと?」まだお茶を期待していた私はそう思ったが、エマドの言う 通りになるといけないので、ともかく水を飲んだ。

床の上に座っていると、ほどなく、この市民軍の指導部とおぼしき重武装の軍 人タイプの兵士団が入ってきた。その頭目の男はカーキ軍服に身をつつみ、長 くて光るロケットをまるでゴルフクラブのように肩からはね上げていた。いか つい体つきだった。私たちにロケット弾を発射したがっているようには見えな かった――しかし、スカーフの男たちに私たちのポケットから所持品を取り上 げるように命令した。私のパスポートはカーゴパンツの脚ポケットに入ってい た。こんな脚ポケットなんか不必要な飾りだと前からけなしていた私には信じ られないことだったが、ついにそれが役立つ時が来たのだ。彼らはパスポート を発見できず、私もだれかに手渡そうなどとするはずもなかった――彼らが肩 にロケットを背負っていようがいまいがである!

私がまだお茶を待ちかねているとき、例のいかつい軍人が長いスカーフを取り 出し、それらを巻き始めた。エマドがひざまずき眼鏡をはずした。

「おお、神よ」私は慄いた。「目隠しされるのだ」

テレビで見た、その一人は私の友人でもある日本人3人の人質事件、目隠しさ れて、がたがた揺すられて首にナイフを当てられて泣き叫んでいる、あのイ メージで私の頭はいっぱいになった。今回のこの辛い体験を通じて、これほど 体中に恐怖心が充満したときはない。ついに私は捕虜になったのだと認めた。 この状況はどうしようもないことを認めた。お茶を振舞われる見通しはほぼな いことを認めた。

ほかの仲間を見てみると、顔は青ざめ、お互いにささやきあっているのは、私 には最後の言葉のような感じだった。

しかし戦士はエマドの向きを変え、後ろ手にしてスカーフで縛った。目隠しは なしだ。他の男性も手を縛られた。私たち、女は、そのままだ。私は息を吹き 返した。

見張りつきで別の家に連れて行かれた。「中に入れば、たちまちお茶よね」と 思うと、再び元気が出てきた。

典型的なイラク人の居間のような、床にクッションが並べられた大きな部屋に 案内されたが、あたかも長期間だれも住んでいないような部屋だった。デーブ は手のいましめを解かれ、私たちは床に座って指示を待った。ドアのところに 銃を持った男が座っていて、まだ返してもらえないのははっきりしていた。

しばらくすると、もっと年配で、民間人の服装――長い、茶色の、伝統的な衣 装――の人が現れた。「古老」といったタイプで、この集落の指導者らしかっ た。深刻な顔をしていたが、威厳のある顔つきでもあった。私たちが何者か判 定を下すのが彼の仕事のようだ。私たちはスパイだと疑われており、彼が結論 を出すのだ。

椅子に座って質問をはじめた。同行しているイラク人女性アクラが通訳して、 一番近くの私から始まった。「ここで何をしている? 何故イラクにいる?」  私以外の人も黙って聞いていたが、突然思い立った彼は、別々に尋問できる よう、他の者を外に出させた。

それぞれの話を確認しあって、私たちの言うことが本当だと証明できるので、 それは私にも結構なことだった。

私は背筋を伸ばして座りなおし、やわらかい語り口の賢明そうな男の質問を 待った。

私がオーストラリア人だと言うと、彼の眉が上がった。

おおいに関心を覚えた彼は、身を乗り出して、次から次へと、またその次へと 質問してきた。

それに続く30分の尋問のあいだ、私は、じつにさまざまな感情を経験した。 体に痛みを覚えるほど悲しみ、恥じ入り、憤り、激情に駆られ、時には泣き出 してしまった。

最後には動揺してほとんどしゃべれなくなってしまった。この男やこの一団が 怖くてではなく、彼がどんなに深く傷つき裏切られたかを知ったショックから だ。それも、私の国から。

あなたの巡礼者より

ドナ

追伸:尋問の詳細などは次号。

追追伸:「ザピルグリム」メーリングリストの名で、ウィルスが送られたよう で、ごめんなさい。どうしてこんなことになったのか全く分かりません! だ れか、分かる人いる? 再発防止はどうしたらいいんでしょう?

追追追伸:オーストラリア人の皆さん、ご存知のようにジョン・ハワード首相 が日曜日にバグダッドをちょこっと訪問しました。いいえ、私のところに挨拶 に立ち寄ることもなく、私のイラク人の友人たちとも会うこともなく、病院も 訪れず、いまやテント暮らしのファルージャの難民に会うこともなく、などな ど。それでもやはり、ジョン・ハワードが今回の訪問で心を打たれ、彼の心が 戦争による苦難にやさしくなれるように、祈るべきだと信じます。

追追追追伸:「どうして彼はあんなに早く帰ってしまったのですか? 私たち と話をしてみたいとか、自分がやった結果を見てみたいと思わないのですか?  そうしたら、彼も理解できたかもしれないのに」――ジョン・ハワードによ るアンザック・デイのバグダッド空港へのつかの間の訪問について  わが友 人  マーメド。

原文 http://groups.yahoo.com/group/ThePilgrim/message/80

同行者のジョー・ワイルディングのファルージャ報告 原文 http://www.wildfirejo.org.uk/feature/display/115/index.php 訳文 http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/places/iraq0404i.html