TUP BULLETIN

速報942号 ドナより イラクへ向っています――やっとのことで……!

投稿日 2012年7月20日

私たちは片手にろうそくを持ち、もう一方の手は仲間の隣の人と繋ぎました


オーストラリア人女性ドナ・マルハーンは、2003年の春にはイラクで「人間の盾」に参加した。04年春にはイラクで米軍包囲下のファッルージャに入り、その帰路地元レジスタンスによる拘束を経験し、つぶさにその報告をしてくれた。04年冬から05年春にかけてはイラク・パレスチナ「巡礼の旅」を伝えてきた。05年8月には、シンディ・シーハンのキャンプ・ケーシーに駆けつけ、アメリカからの報告は、ほとんど実況中継だった。05年12月にはオーストラリアがイラク戦争に最も貢献してきたパイン・ギャップ秘密基地に侵入し、「市民査察」を強行して逮捕されたが、08年2月に無罪判決を勝ち取った。09年末から10年初頭には、イスラエルによる包囲封鎖に苦しむパレスチナ・ガザ地区に入って援助を届け、現地から報告してきた。10年2月に、『普通の勇気――わが旅、人間の盾としてバグダードへ』を出版した。11年3月に、アフガニスタンのカーブルに向かい、地元の「青年平和ボランティア」と共に行動した。


今回、劣化ウラン弾などの有毒兵器の被害に苦しむイラク・ファッルージャの女性や子供の調査に向かったドナは、途中ドイツに立ち寄りました。その後イラクのビザを入手し、無事イラク入りしました。そのまさにイラクに向かう途上からドナが送った報告です。

(翻訳:福永克紀/TUP)

イラクへ向っています――やっとのことで……!
ドナ・マルハーン
2012年7月13日

お友達の皆さんへ

こんにちは、行脚中の巡礼者からです! この旅の始まりに起こったいくつかの痛手、つまり、私の荷物の行方が分からなくなり、機材も盗まれ、2年間懸命に集めた募金(約4000ドル)も消えてしまったのですが……、それにも関わらず、私が巡礼の旅に戻れたのも、皆さんの多くがサポート[*注]してくださったおかげです!
[*訳者注:ベルリンの空港に到着後、ドナの荷物がドナの元に戻らず、すべての衣類や機材も含め今回のイラク訪問用の4000ドルを盗まれた。しかしフェイスブックなどのSNSで呼び掛けたところ、短期間に3000ドルを超す寄付が集まった。この節はそのことを指していると推測される]

とてもめまぐるしい数週間を過ごしてきて、ドイツでは最初に「戦争の有毒残留物」を課題とする会議
http://www.toxicremnantsofwar.info/
に出席し、それから戦争や紛争が残した影響を調査するためにいくつかめぼしい所に行ってきました。ベルリン、ライプチヒ、ドレスデン、ニュルンベルクです。

あまりに多くの感想、考え、思いを抱いたもので、どこから話を始めていいのか見当もつきません。私が直に向かい合った話は、ある時には重苦しく悲しいもので、またある時には恐ろしいもので、そしてまたある時には元気づけてくれるものでした。

ベルリンの壁崩壊をもたらした東ドイツの民衆の力による革命について、私が「ユリーカ・ストリート(Eureka Street)」のウェブサイトに書いた記事を読まれた方も皆さんの中におられるかもしれません。このライプチヒにある聖ニコライ教会の驚くべき話を、私は「ベルリンの壁崩壊に関する、過小評価されたほとんど信じがたい裏話。勇気と非暴力と人民の力の話、そして多くの人が『奇跡』と呼ぶ話」と表現します。

この記事のリンクは、
http://www.eurekastreet.com.au/article.aspx?aeid=32141
で、このメールの下部にもまた全文貼り付けておきます。読んでみてください、実に勇気づけられるもので……。

フランシスカンズ・インターナショナルとエドムンド・ライス・インターナショナルの両人権擁護団体が主催する、国連人権委員会の本拠地ジュネーブへの訪問団にも短期間参加し、クリスチャン・ブラザー(キリスト教修道士)の友人・仲間と過ごしました。次週に始まるラマダーン以前にイラク入りしたほうがいいとイラク人の友人たちに説得され、私はこの提案に心底同意してジュネーブでの滞在期間は短縮することとし、ビザの獲得と飛行便の変更に全力を尽くしてきました。

そういうことで、今や、ついに、私のパスポートにイラクのビザを手に入れ(これには何カ月もかかったのです――ヤッター!)、そしてまさに今現在(文字通り)バグダードに向かう途中です。

私が行こうとしているのは、平均45度の暑さで、電気は途切れ途切れ(したがって、扇風機も冷蔵庫もエアコンも途切れ途切れ)、そして混沌とした予測もつかない暴力の地です。オーストラリア政府のウェブサイトによれば、昨年のイラクでは、月に平均260回の攻撃があり、4000人以上の民間人が死亡し、数千人以上が負傷しています。

2012年は、当面のところ、はるかに悪化しています――6月だけでも約450名の民間人が死亡しました。

「連合軍」によるイラク侵略、9年に及ぶ破滅的な外国軍占領、打撃的な介入と分断政策が、一つの国を平和も民主主義も人権もない国にしてしまい、フセインが最悪時にさえ達成できなかった死亡率の国にしてしまいました。「有志連合」は、直接的にも間接的にも、この状況に果たした役割に責任を取らなければならないことがたくさんあります。

2003年の初訪問以来、4度目の入国としてイラクに戻ろうとしていますが、ここしばらくでは初めてで、7年ぶりです。常に戦争の最大の犠牲者である女性と子供の話を集めにイラクに戻ります。今回はとりわけ胎児の話です。

劣化ウランを含有する兵器などの有毒兵器使用の影響を受け、そのため先天的肢体障碍や癌が多発しているイラクの都市ファッルージャの女性と子供の話を語るようにと、私が召命を受けていると感じていることを皆さんご存じでしょう。女性の流産はあまりに頻繁に起こり、赤ん坊は死産され、まれに生き延びても重大な障碍で数カ月しか生きられない。まったく枯葉剤エージェント・オレンジの二の舞です。私の目指すところは、この母親や赤ん坊の名前を示し、顔を知らしめ、声を聞かせて、より広範な聴衆にこの問題への関心を広げることです。ドキュメンタリーを制作して、ネットや他の方法でこの話をできるだけ広く公表したいと思っています。

こんなことがまたどこかの新たな無辜の家族に起こらないようにと私たちに努めさせるために、こうした話は語り継がれ、聞き継がれなければなりません。

こんなに多くの皆さんが支えてくださっているこの使命を達成するために、来たるべき何日かはファッルージャ病院や他の病院で時を過ごし、不可避な難関(検問所、暴力、酷暑、爆弾、無秩序など)を克服する最大限の努力をします。

心の中で皆さんが私と共に居ると感じているこの時、皆さんの祈りと素晴らしいエネルギーも私と共にあると信じています。このことを特に感じるのは、私のお金が盗まれた時に、急な救援のお願いにもかかわらず危機に陥ったこの使命にこれほど多くの皆様が助けの手を差し伸べてくださり、また資金を送ってくださったからです。私と赤ん坊に対して示された、こんなにも多くの連帯に感謝します――皆さんが、これを可能にしたのです!

次週にも追加情報を送りたいと思っていますが、時間も電気もインターネット接続も多くは期待できないでしょう、でもやってみることはお約束します!

皆さんの巡礼者
ドナより

追伸:これからの旅に関する定期的な追加情報を受け取るには、フェイスブックか、ツイッターの @donnamulhearn でフォローしてください。

追追伸:もし皆さんが電子決済可能な口座からこのイラク派遣団に寄付を御希望なら、詳細は以下です。口座名:ドナ・マルハーン、ボランティア費用(Donna Mulhearn, volunteer expenses)、銀行コード(BSB):062181、口座番号(a/c):10305704。ありがとう!

追追追伸:「私たちは片手にろうそくを持ち、もう一方の手は仲間の隣の人と繋ぎました――こうすると、誰も警官に石を投げることはできませんでした。これが私たちが平和的な行動を保った方法です」――シグリッド、聖ニコライ教会長老
「我々はすべてを計画していました。すべてのことに準備を整えていました。しかし、ろうそくと祈りには備えていなかったのです」――ホルスト・ジンダーマン、元東ドイツ中央委員会委員

****************
[訳者注:以下、ドナがユリーカ・ストリートで公開した文章。ユリーカ・ストリート上に現在ある文は、少し修正されていてこの訳文とは少し異なるが大意は変わらない]

【東ドイツの平和の天使】
ツイードのスカートに実用本位の靴姿で現れた60何歳かの教会の長老シグリッドは、革命家のようには見えません。

彼女はアイフォンも銃も持ってはいません、しかし彼女は、抑圧的体制を倒し、冷戦を終わらせ、ベルリンの壁を崩壊させ、東ドイツを統一と民主主義に開いた運動の中心にいた革命家です。この温和な語り口の女性が、ドイツを変え、世界も歴史も変えるためには不可欠な人だったのです。

シグリッドは、ことが始まった時そこにいました――遠く離れた東ドイツの Leipzig’s Nikolaikirche (ライプチヒ聖ニコライ教会)では、ベルリンの壁崩壊までの何年もの間、毎週月曜日の夜に平和の祈りと議論と平和的デモが行なわれていました。

「それは15人くらいの人たちで始まりました」と、シグリッドは教会の簡素な奥の部屋で私にコーヒーを注いでくれながら説明してくれました。「私たちは、年に一度、平和合宿をやっていたのですが、その時毎週やろうと決めました」

「そうしたら段々と多くの人が来るようになったのです。キリスト教徒だけではなかったですね、誰でも歓迎しました、みんなが事態を議論し、不平を並べ、軍備縮小や環境問題や人権や自由について議論するようになったのです」

「とうとう数千人にものぼり、教会では入りきれなくなり、広場に繰り出しました、すると東ドイツ中から人々が来るようになりました」

ニコライ教会のこの話は、ベルリンの壁崩壊に関する、過小評価されたほとんど信じがたい裏話。勇気と非暴力と人民の力の話、そして多くの人が『奇跡』と呼ぶ話です。

必然的にこの運動は東ドイツの残忍な治安警察の怒りを買い、治安警察は教会を取り囲み、道路封鎖や荷物検査を行ないました。毎週続く逮捕や拘置のほか、脅し、暴力、殴打も続きました。ライプチヒにつながる幹線道路は月曜日には封鎖されました。

それでも、この平和の祈りと集会とデモは続けられ、ますます膨大で強力なものとなり、祭壇の上に数百年前に描かれた予言的な「平和の天使」が見つめるなか、教会のスローガン「ニコライ教会――すべての人に」が毎日の現実となったのです。若者たちは旧約聖書の預言者の表現を使い、「剣を打ち直して鍬とせよ」とシャツに描いて着用しました。それがこの運動のシンボルとなって、ベルリンや東ドイツ中の教会に広まり、この非暴力抵抗運動を支援して安息地を提供することになりました。

非暴力に徹し規律とするための訓練や手段はどんなふうにしたのかとシグリッドに尋ねると、彼女は微笑み、頭を左右に振りました。「何もありません、神の教えからです、私たちはそれに従っただけです」

単純だが深遠な決定的要因だった戦略を、彼女が説明してくれました。

「私たちは片手にろうそくを持ち、もう一方の手は仲間の隣の人と繋ぎました――こうすると、誰も警官に石を投げることはできませんでした。これが私たちが平和的な行動を保った方法です」

これには東ドイツの強硬派の鎮圧警察も当惑しました。

ある時点では、当時教会の役員でもあったシグリッドは、市長の事務所に呼ばれて毎週の集会を止めるように強要されました。彼女は続行すると市長に断言しました。

またある時には、東ドイツの悪名高い国家保安省シュタージが、ある集会に1000名の保安員を送り込んできました。祈りと瞑想の間ずっと座っていた彼らは、福音の根源的なメッセージに聞き入り、多くが「山上の垂訓」が読み上げられた時には大いに感銘し、初めて議論に参加したといいます。

そして、1989年10月9日、2000名以上が教会を出ると、手にろうそくを携えて外で待ち構えていた推定7万人の「我々が人民だ」と唱える大声に迎え入れられたのです。この時でした、とシグリッドが説明します、平和と非暴力の奇跡が起きたのは。

「軍人も警官も引き込まれ、話し合いに関わり、そして撤退しました。誰も相手を打ち負かしたのではありません、誰も面目を失いませんでした」

次の週には12万人が集まり、その次の週には、人数は倍以上に増加して32万人に上りました。

この首尾一貫した、平和的で、敬意あふれる、非暴力の圧力が、11月9日のベルリンの壁崩壊につながり、東ドイツのイデオロギー独裁が崩壊したのです。

「我々はすべてを計画していました。すべてのことに準備を整えていました。しかし、ろうそくと祈りには備えていなかったのです」と、何年ものちに、元東ドイツ中央委員会委員のホルスト・ジンダーマンが言っています。

月曜夜の平和の祈りはニコライ教会で今も続いています。ライプチヒの見捨てられた人々がコーヒーとおしゃべりにやってきます――いまだに「すべての人に開かれた」教会なのです。失業者や移民のためのプログラムを支えるボランティアはシグリッドのような人たちで、単純な教え、つまり人々が共に実践すれば革命につながると知られた教えに従っている人たちです。

ドナ・マルハーンはオーストラリアのジャーナリスト兼平和活動家で、戦争の影響に関する話を収拾するため現在ドイツ国内を巡っている。イラク社会が受けた劣化ウランの影響に関するドキュメンタリー制作のためイラクへ向かう途中である。

原文:En-roue to Iraq – finally…!
URL: http://groups.yahoo.com/group/ThePilgrim/message/253