TUP BULLETIN

TUP速報1026号 「人権の彼岸」から世界を観る――二重基準に抗して

投稿日 2023年10月8日



写真:Hosnysalah, Palestinian photographer currently living in Palestine Gaza Strip.

表題の論考を配信する準備をしていた昨日(2023年10月7日)、ガザがまた世界の注目を集める事案が発生した。背景に横たわる不都合な真実、二重基準を考察する一助にしていただけると幸いだ。

去年(2022年)のカンヌ映画祭での記者会見のクリップ(切り抜き動画)が最近ソーシャルメディアに出回った。それは、ルッキズムや現代の階級制を風刺し、最高賞パルムドールを受賞したブラックコメディ『Traiangle of Sadness (邦題『逆転のトライアングル』)の監督と出演者の記者会見のひとコマで、演じた役柄についての質問にベテラン米国人俳優ウディ・ハレルソンが回答するクリップだ。様々な反権威主義的社会活動で知られるハレルソンは、演じた役はマルキシストだが、自分はアナーキストだと前置きした上で、以下のように話を続けた。

「大きな軍事力を有する超大国が、挑発もされていないのに他国を攻撃するのは忌まわしいことだと私は考えます(記者会見場の人々は静まりかえって聞いている)。えっと、例えばイラクとか、あ、間違えた、アフガニスタンとか、あ、また間違えた、ヴェト...、あ、朝鮮、あ、違う違うウクライナだ(会場から笑いと拍手)。全くひどいことだ」

これがウクライナ戦争開戦から3ヵ月足らずの発言であることを考えると、驚くべき勇気だ。ロシアの悪魔性を少しでも疑うようなことを言った途端、間髪入れずに「プーチン擁護者」「ロシアのスパイ」といったレッテルが容赦なく発言者に貼り付けられていた頃だから。

この1年以上前の動画を今、どこの誰がソーシャルメディアに投じたかはわからないが、今年の911アニバーサリーと前後して放流されたこの動画には数カ国語の字幕がつき、多くの人に考える機会を与えたようだ。

冷戦終結後、世界の警察官を自認する米国とNATOの行動は、ロシアの行動をとやかく言えるほど身綺麗なものではない。もちろんこれによりロシアの行動が容赦されるものではないが、ハレルソンがジョークの衣を着せて述べたことは、NATO諸国のマスメディアこそが言わなければならなかったことだ。我が身を振り返り、その二重基準に疑問を呈していなければならなかった。西洋の二重基準を内面化してしまったかのような日本のマスメディアにも、この視点が必要だ。

ウクライナ戦争開戦から1年足らずの今年2月初頭に店頭に並んだ雑誌『世界』3月号に掲載された岡真理さんの原稿を再録する。二重基準について、深く踏み込んで考察する機会になれば幸いだ。(前書き:藤澤みどり)




「人権の彼岸」から世界を観る――二重基準に抗して



岡 真理  『世界』2023年3月号への寄稿

この1年、日本では、ロシアのウクライナ侵略に対する非難とウクライナの人々に対する共感がメディアに溢れ、平和学習がにわかに興隆した。かたや中東のメディアに溢れるのは、欧米諸国の二重基準に対する批判だ。侵略を非難し、その犠牲者に共感することは正しい。しかし、平和を唱えながらこの二重基準の問題を等閑視することは、平和よりもむしろ、その破壊を援けるものであるということを以下に論じたい。

ロシアによるウクライナ侵攻が始まるや、欧州諸国は躊躇なく何百万人ものウクライナ難民を受け入れた。ポーランド国境で官憲に追い返されたシリア難民らが厳寒の森をさまよった直後のことだ。故国の惨禍を逃れ欧州を目指したのは、どちらも同じであるのに。欧米の記者は、ウクライナ難民が白人の、同じヨーロッパ人であることを強調した。[注1 文末を参照]

肌の色や宗教、言語を理由に人間に対する扱いを変え、その差別を理に適うとすることがレイシズムであり、自分たちと同族という理由で人を優遇するのは部族主義だ。難民の受け入れにおける欧州諸国の二重基準は、欧州の部族主義であり、このレイシズムこそ、未だ植民地主義の時代と変わらない西洋世界の地金であることを、ウクライナ危機はいつにも増して露わにした。

非西洋世界の人々が欧米の二重基準を批判するのは、単にそれが差別だからではない。近代西洋世界は自らの「普遍」を僭称しながら、非西洋世界の者たちには自分たちと同じ人間性を認めず、奴隷制や植民地支配をおこなった。非西洋世界の近現代史とは、「普遍」を掲げて人間の尊厳を蹂躙する西洋のレイシズムと二重基準に抗し、普遍的人権を字義通り真に普遍的なものとする闘いの歴史であり、その闘いは今も続く。だからこそ、かつてと同様に「先進国」として国際社会を領導する欧米諸国の、普遍的理念を裏切るレイシズムや二重基準は、西洋の「植民地主義」の暴力の継続として批判されねばならないのだ。

では、西洋のレイシズムと二重基準は、日本の私たちとは無縁だろうか。

2015年、すし詰めのゴムボートで地中海の対岸を目指したシリア難民らは、欧州南端の島に辿り着いて初めて「難民」になった――欧州に危機をもたらす「難民」に。辿り着けずに海の藻屑となって消え去った、数字としてさえ存在を認知されない者たちもいる。

シリア内戦が始まったのは欧州難民危機が起こる4年も前だ。それはウクライナ危機に勝るとも劣らず破壊的なものだった。5年間で死者は40万人に達し、2200万人の国民の半数以上が家を追われ、うち500万人以上が国外難民となったが、彼らがレバノンやトルコなど中東の隣国にとどまる限り、それはあくまでも中東の問題、世界に無数にある問題のひとつに過ぎなかった。しかし、彼らが「欧州の危機」となるや、それは「世界の問題」となった。

ウクライナ難民は、問題発生の当初より不条理を強いられる人間として報じられた。ポーランドに到着した彼らの疲れと不安がにじむ顔をカメラは追う。記者が幼子を連れた母親に問う、どこから? 子どもの齢は? 国で何があった? 個人の肉声を伝え、視聴者に彼、彼女らは私たちと同じ人間だと感じさせる報道だった。一方、欧州難民危機では、浜辺に漂着したり駅に群がる難民の姿が報じられたが、彼らはあくまで「中東難民」という塊であり、そこに辿り着くまでに彼らひとりひとりが体験した苦難を見る者に喚起する報道ではなかった。ウクライナ難民に比べ、彼らは相対的に非人間化されていたと言える。

「イラク戦争」が始まったのは2003年の3月。首相が攻撃を支持し、自衛隊が派遣され、戦争反対の市民デモが各地で行われた。日本人の活動家やジャーナリストが人質になった。イラクには日本や日本人が直接関わり、市民の関心も自ずと大きかった。開戦の2年後には、攻撃の理由とされた大量破壊兵器は存在しなかったことが明らかにされた。イラク攻撃の前提のすべてが嘘偽りだったのだ。

「イラク戦争」の実際は、米国によるイラク侵略である。その後のイラクに内戦をもたらし、社会を破壊し(数十万人が殺され、100万人以上が難民となった)、大統領独裁のもとで苦しんできた人々をさらに苦しめることとなった侵略を日本は支持し、その一翼を担った。憲法前文が謳うことの真逆を行ったのだ。だが、憲法の理念を踏みにじり、自国が加害者として責任を負うイラクに対して、私たちはこの間、どれだけ関心を寄せてきただろうか。[注2]

普遍的人権ゆえに平和を訴えるなら、日本や日本人が深く関わるイラクや、ウクライナ以上に破壊的な状況に置かれてきたシリアにもウクライナと同じ関心が寄せられても不思議ではない。だが、そうではないのはなぜか。この関心の落差は、平和や普遍的人権を唱えながら私たちが実践している二重基準にほかならない。

だが、米国主導の戦争を是とするという観点から見れば、ことは首尾一貫している。企業メディアによる報道もそれに沿ってなされている。企業メディアはウクライナ危機を人間の普遍的な悲劇として伝えるが、そのシリア報道は、中東で、あるいは欧州で今、こんなことが起きているという5W1Hのニュース以上のものではない。シリアの出来事を普遍的な人間の悲劇として伝える海外のテレビ・ドキュメンタリーもあったが、BSの深夜放送だ。ウクライナは、地上波のニュースで茶の間に飛び込んでくる。しかも連日。

ウクライナ危機が掻き立てた平和への関心と、イラクに対する関心の相対的な低さは、米主導の戦争に関して政府が国民に期待する態度を反映している。「イラク戦争」を米国によるイラク侵略と見なす普遍的人権の視座を国民が広く共有することを政府は望んでいない。NHKを筆頭に企業メディアの報道は、程度の差こそあれ、こうした政府方針に従うものだ。

ロシアの侵略を非難し、侵略の犠牲者であるウクライナの人々の苦難に共感することは、人間として自然な感情のようにも思えるが、普遍的人権や平和の大切さとは関係なく、米国が是とするものを是とし、自らも戦争のできる国づくりを目指す政府の意図に沿うものでもある。だからこそ私たちは、この二重基準を批判し、人間の平等を貫徹させなければならない。

この二重基準を真に批判しないまま、アフガニスタンやシリアやパレスチナの名を戦争の被害者リストに追加するだけでは足りない。なぜなら彼らは、「戦争」の犠牲者というよりも、普遍を詐称して国際社会を領導する者たちの二重基準の犠牲者であるからだ。このことを、ガザを例に見ていきたい。

パレスチナのガザ地区。面積約360平方キロ(東京都23区の約半分)。地中海に面し、40キロの海岸線をもつ。人口は約230万。その7割が1948年、パレスチナにおけるユダヤ国家建国に伴う民族浄化で故郷を追われ、ガザにやって来た難民とその子孫だ。ガザは1967年、東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区とともにイスラエルに軍事占領された(安保理決議違反の占領は間もなく60年になる)、2007年からイスラエルによる国際法違反の完全封鎖のもとに置かれている。封鎖は今年、満16年を迎える。200万人以上の人間が、16年もガザに閉じ込められているのだ。「世界最大の野外監獄」と呼ばれる所以である。そして封鎖下のガザはこの間、実に4度にわたりイスラエルによる大規模な軍事攻撃に見舞われている。

2008年暮れに最初の攻撃が起きたときは、信じられなかった。150万(当時)もの人間が逃げ場もなく閉じ込められたガザの全土が、陸海空から22日間にわたり無差別に爆撃、砲撃された。死者は1400人以上。大半は市民だ。日本のテレビニュース等でも報道されはしたが、人間を袋の鼠状態にして無差別に殺戮するという、人間性の底が抜けたような出来事に見合った量でも内容でもなかった。そしてひとたび停戦になると、ガザは報じられなくなった。

2012年11月には82日間の攻撃があり、さらに2014年、ガザは51日間にわたって攻撃された。すさまじい攻撃だった。国連施設も砲撃され、避難していた市民と国連職員54名が殺された。イスラエルは攻撃目標の規模とは不均衡な圧倒的火力の集中砲火で目標地点一帯を焦土にする「ダーヒヤ・ドクトリン」を展開した。イスラエルとの境界付近は何十キロにもわたり、原爆投下直後の広島を彷彿とさせる焼け野原と化した。7年後の2021年の5月にはまたも11日間の攻撃。破壊兵器の性能は日進月歩だ。今まで体験したことのない異次元の攻撃であったと生き延びた者たちは言う。

2014年ガザの51日間戦争における非戦闘員の死者は1462名(うち、子ども551名。若年人口の割合が大きいガザでは、つねに子どもの死者が突出する)。150万の人口で死者1462名は、日本の人口比で言えば約10万人に相当する。日本で言うなら、2カ月足らずで10万人が殺されたということだ。これはジェノサイドではないのか。しかも、大規模軍事作戦が発動されるたびに破壊と殺戮は威力を増して繰り返される。

攻撃目標に不釣り合いな圧倒的火力による攻撃(これは2014年の攻撃のあと「ガザ・ドクトリン」と呼ばれるようになった)とは、国際法が定める敵対行為の均衡原則に反する戦争犯罪である。国連施設に対する攻撃も然りだ。そもそも封鎖それ自体が集団懲罰であり、国際法違反である。イスラエルによる散発的な空爆、超法規的暗殺は日常茶飯事のため報道もされない。ロシアのウクライナ侵略以上の破壊と殺戮が、ガザの日常、定例行事なのだ。

国際法に照らしてロシアのウクラナイ侵攻が非難されるなら、イスラエルも同様に非難されねばならない。そうならないのは、「国際社会」の二重基準のせいである。ロシアのウクライナ侵攻は国際法違反、国連憲章違反として「侵略」と名指され非難されるが、イスラエルのガザに対する攻撃が「侵略」と呼ばれることはない。国際刑事裁判所も直ちにロシアの戦争犯罪の調査に乗り出し、「国際社会」はプーチンを戦争犯罪者として糾弾するが、イスラエルが不均衡な敵対行為によって街を破壊し市民を殺戮しても、戦争犯罪として告発されない。バイデン大統領はロシアの攻撃をジェノサイドと表現したが、イスラエルによるガザ攻撃を「国際社会」がジェノサイドと呼ぶことはない。ロシア軍に対峙するためにウクライナ市民が火炎瓶を手作りするのは正当なレジスタンスとして、日本のメディアは応援するかの如く好意的に報じるが、ガザのパレスチナ人が、国際法や安保理決議や人権規約に違反しながらイスラエルが継続する占領や封鎖に対して武装闘争をおこなうのはテロと非難される。

だが、パレスチナ人がパレスチナに自分たちの独立国家を持つことは、国際社会が認めたパレスチナ人の正当な権利である。その主権国家をパレスチナ人に持たせまいとして、イスラエルは違法な占領を続け、違法な封鎖を課し、人為的に人道危機を創り出し、ジェノサイド規模の殺戮を繰り返しているのだ――米国の拒否権に守られながら。

公正さ(ジャスティス)の基準とはひとつでなければならない。ある者たちには適用されるそれが、別の者には適用されないなら、それは公正ではなく、不正のためのツールである。パレスチナ人にとって国際法とは自らの普遍的人権を実現するための唯一の武器だが、欧米諸国にとってそれは、「敵」を非難するときは振りかざし、自己の利益のためには踏みにじる、ご都合主義の道具に過ぎない。そこで唱えられる「平和の大切さ」や「普遍的人権」など、まったくのおためごかしということになる。企業メディアによるパレスチナやガザの報道も、基本はそのラインでなされている。パレスチナの平和が実現しないのは、「戦争」のせいではなく、「国際社会」のこの二重基準のゆえにほかならない。

もうひとつ、ガザに関する二重基準がある。

2014年7月、ガザに対するイスラエルによる3度目の大規模軍事作戦が始まったとき、封鎖はすでに7年が経過していた。攻撃開始から1週間後、イスラエルが無条件停戦を提案したが、ガザを統治するハマースは、封鎖解除を条件としない停戦は受け入れられないとしてこれを拒否した。このときの日本のテレビの報道は倒錯したものだった。ガザ市民を日々、殺戮しているのはイスラエルであるにもかかわらず、封鎖解除という停戦条件に固執するハマースが停戦案を受け入れず、そのためにガザの人々が殺され続けているとハマースを批判したのだ。

それは欧米メディアの論調に倣ったものだったのだろう。1週間後、ガザの識者やジャーナリストら100名以上が「ガザに公正なき停戦はしない」と題した英語の声明を発表した。声明は、一方的停戦案を拒否したハマースはガザの圧倒的多数の住民の感情を代表しているとし、「単に既成事実(すなわち7年間続いている完全封鎖下の生活のことだ)に戻るだけの停戦など受け入れがたいというのは、広く公衆に共有されている感情である。そんなことを受け入れろというのは、生きながら死ぬ状態に戻れと言うのに等しい」と訴えた。封鎖とは「生きながらの死」だということだ。

しかし、封鎖は解除されず、さらに9年が過ぎた。16年に及ぶ封鎖でガザの産業基盤は破壊され、経済は壊滅した。失業率は49%、世界でも最高水準だ。人口の半分が貧困線以下の生活に喘ぐ。住民の8割が国際社会の支援に依存し、100万人の難民が国連による食糧配給で命をつなぐ。水道水の95%が汚染されているが、住民たちは健康に悪いと分かっていてもそれを飲むしかない。生きるための水が、肉体を内側から蝕むのだ。

2006年にガザ唯一の発電所が攻撃で破壊され、電力供給は1日4、5時間(最近は改善されて12時間供給されるようになったが、それでも1日の半分は電気がないのだ)。ガザの人々は、日本の私たちと同じように、近代的な都市生活をしている。高層住宅に住む者たちも多い。そのガザで電力が1日の半分、あるいは数時間しか供給されないのだ。停電で止まるのはエレベータだけではない。上層階は水も来なくなる。当初は蝋燭で灯りをとっていたが、火事で子どもが亡くなる事件が相次ぎ、バッテリー(蓄電池)が家庭の必需品となった。それが貧しい家計をさらに圧迫する。また、近代医療は電気に依存している。病院は燃料を病院の発電機に回すため、救急の出動を控えることを余儀なくされた。人工透析患者は必要な時間の半分しか透析を受けられない。長期的には明らかに命を縮めている。

下水処理施設は電力不足やイスラエルの攻撃で破壊されたりして、この間、10年にわたり稼働しなかった。200万もの住民の生活排水が汚水処理されないまま、日々、大量に海に放出されていたのだ。その結果、ガザの海は汚染され、海水浴は命の危険を伴うものとなり、ビーチは遊泳禁止になった。世界最大の監獄に閉じ込められた住民たちは、彼らにとって唯一といってよい憩いと癒しの場だった海さえ奪われたのだった。[注3]

ドラッグの依存症も増えている。無惨な現実から逃避するためだ。それが家庭内暴力や強盗事件などを誘発し、社会のモラルを内側から破壊する。その間にも大規模な軍事攻撃が繰り返され、そのたびに大勢の人間が殺され街が破壊される。今、住民の多くが精神を病んでいるという。出口の見えないこんな状況に16年間も置かれているのだ。人間であれば当然のことだ。そして2014年頃から、自殺を最大の宗教的禁忌とするイスラーム社会のガザで自殺――とくに若者の自殺――が急増している。いつ終わるとも知れぬこの「生きながらの死」よりも地獄に落ちる方がましだということだ。国際社会に対する絶望の表明である。

封鎖は占領と同様、「構造的暴力」である。直接的暴力である戦争と異なり、一時に大量に人が殺されたり建物が破壊されたりするわけではないので、その暴力性はにわかには分かりづらい。だが実に巧妙に、今すぐ人が大量に死ぬことなく(だから世界の注目を集めることもなく)、しかし封鎖に起因するさまざまな否定的な影響が長期間にわたり持続、蓄積し、それらすべてが複雑に撚り合わさって、直接的暴力に勝るとも劣らぬ致命的な暴力となって社会と人間を内側から破壊する。ソシオサイド(社会の扼殺)である。

メディアが報じるのは、長期に及ぶ大規模な攻撃があったときだけだ。戦争が続いているあいだは報道もするが、停戦になると終わってしまう。あたかも、もはや私たちが問題にすべき何事もないかのように。だが、政治的目的のために意図的に創り出された人道危機のなかで、230万の人間たちが自由な生を奪われ、基本的人権を否定され、ただ今日を食いつなぎ、生き延びるだけの存在に還元されて、そして数年に一度、大規模に殺戮される。このようなことが16年間、ガザでは続いているのだ。ガザはまさしく、人権の彼岸にある。

ヨハン・ガルトゥングが構造的暴力という概念を提唱するまで、平和とは戦争という直接的暴力のない状態のことだとされた。だがガルトゥングは、それは消極的平和に過ぎないとし、真の平和とは構造的暴力のない状態だとした。

平和が、人間が安らかに健やかに生きられることだとしたら、たとえ大規模軍事攻撃がなかったとしても、封鎖が続く限りガザの人々は平和を享受しているとは言えない。ガルトゥングはまた、直接的暴力や構造的暴力を正当化したり維持したりする態度や価値観、思想を文化的暴力と名づけた。戦争という直接的暴力のみ注目し、戦争に勝るとも劣らず人間の生を破壊する封鎖という構造的暴力を一顧だにしないマスメディアの報道のありようや、「平和」を戦争との連関においてしか考えない態度も、それによって封鎖の継続に加担しているという意味で文化的暴力である。そして封鎖が継続することで、ガザに閉じ込められた200万もの人間に対する集団殺戮が繰り返し可能になっているのだ。

封鎖下で、これが人間か、人間の生と言えるのか、というような生を生きる(あるいは死ぬ)ことを強いられているガザの人々を関心の埒外に捨て置くことで国際社会は、パレスチナ人には私たちと同じように人間らしく生きる権利はないというメタメッセージを16年にわたり発信し、これを実行し続けている。戦争だけを問題にすることは、結果的に人権をめぐるこの二重基準を実践し、平和を渇望するパレスチナ人の抹殺の推進を幇助することになる。

ロシアの侵略は非難されねばならない。だが、平和の真の敵はプーチンではない。普遍的人権や国際法の「普遍性」を切り崩す、国際社会の二重基準こそ、私たち世界市民が戦わねばならない敵である。

 

[注1] ポーランドにおけるウクライナ難民受け入れでは、ウクライナに留学していたナイジェリア人らが入国を拒否されたことが伝えられている。また、欧米メディアでは、ウクライナ人が白人で、キリスト教徒であり、彼らの悲劇が文明的なヨーロッパで起きていることを強調する発言が相次いだ。

[注2] 「ウクライナ、平和学習」で新聞記事を検索すると、266件。イラクは337件だ。わずか1年足らずのウクライナをめぐる平和学習が、日本が深く関係したイラクの20年分の平和学習の8割近くに達する。ウクライナへの関心の、ある種「異常な」高さが窺える。

[注3] 最近、電力供給が若干改善され、ドイツの援助で下水処理施設が再稼働を始めたことで、ガザの海の汚染も改善され、昨夏はガザのビーチの3分の2で遊泳禁止が解除された。これは、海の汚染がイスラエルの領海にも及んだためだ。