RECENT ARTICLES

TUP速報1021号 「中東人」と呼ぶなかれ

(2021年08月09日)

◎その言葉に潜む意味。無意識に使っている植民地主義の遺産にご用心!

本稿は、レバノンを拠点とする汎アラブの新しいメディア、「Raseef 22」に掲載された"Don't call me 'Middle Eastern'"の邦訳である。「Raseef」とはアラビア語でプラットフォームという意味、また「22」はアラビア語を母国語とする22カ国のアラブ諸国を表している。2011年に始まった「アラブの春」の後に出て来た、比較的新しく、若者の声を中心に伝えるメディアだ。

植民地時代、ヨーロッパの支配者たちは、自分たちから見て東にある近・中距離の地域を「中近東」、または「中東」と呼んできた。しかしこの地域に住む人々にとっては当然、そこは「中東」ではなく、また日本を含む、より東側に住むアジアの人々にとっても、この地域は「中東」ではない。むしろ東アジアから見れば、地中海沿岸やペルシャ湾岸地域などは「西」にある。けれども日本語では、ヨーロッパの列強が植民地時代からずっと使って来た「中東」という言葉を、一般的な会話、ニュース、はたまた「中東」研究者に至るまで、ほとんどの人が疑問を呈することなく使ってきた。

筆者が指摘するように、本来であれば、現在「中東」と呼ばれている地域は、まだあまり広く使われていない「西アジア」という地理的な区分で呼ばれるのが妥当だろう。しかし、これを読んで今後は「西アジア」という言葉を使おうと決めた途端、問題にぶつかった。ソーシャルメディアのハッシュタグを付ける際、「中東」であれば多くの人の検索にヒットするかもしれないが、「西アジア」ではあまり検索に引っかからないのではないか、という問題だ。

そのようなわけで、当面は「西アジア」という言葉の普及に努めつつ、ハッシュタグは両方つけることになりそうだが、本稿は普段何気なく使っている言葉にも、植民地主義の遺産が潜んでいることを気づかせてくれる。

(前書き・翻訳:法貴潤子/TUP)

本文を読む

速報1020号 シャヒ-ド、イーサー・バルハム / スージー...家族が犠牲となった後に、市民リヤードに残されたもの

(2021年07月13日)

ガザ地区


◎パレスチナからの、とある二つの物語

本稿は、パレスチナの日刊紙"al-quds”(5月23日付け)と、”al-haya al-jadida” (6月14日付け)に掲載された二つの記事の邦訳である。一本目の記事は、ヨルダン川西岸地区、ナブルス市の南に位置するビータという町で起こった、占領軍と若者達の衝突の際に犠牲となった、イーサー・バルハムという男性の追悼記事である。この前書きでは、その背景から説明したい。

イスラエルと周辺のアラブ諸国のとの間で、大規模な戦いが四度起こった中東戦争、その三度目の第三次中東戦争(1967)以降、イスラエルは東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区とガザ地区を占領し、それ以来、両地域の入植地建設を積極的に進めてきた。(ガザ地区では、2005年に軍、全入植者を撤退させたが、その代わりに、一部の検問所を除き、コンクリート壁などで同地区を完全に封鎖し、物資や人の移動に極端な制限を課している) 2018年には、イスラエル国会は通称「ユダヤ人国家法」と呼ばれる基本法を可決した。内容は、イスラエルがユダヤ人民族国家であること、民族自決の権利をユダヤ人にだけ認めること、ヘブライ語のみが公用語であること、そして入植地建設は国家的に推進されることが記されている。つまり、イスラエル国内では法律によって、非ユダヤ人であるパレスチナ人を合法的にアパルトヘイト政策下に置くことしたのである。

最近では、東エルサレムのシャイフ・ジャラーフ地区で、地方裁判所が住民達に「立ち退き」を命じる決定を下した。住民達は、イスラエル政府が同意した正式な権利書を持っているにかかわらず、だ。 そもそも、占領した西岸及び東エルサレムから撤退しないこと、また東エルサレムに至っては撤退どころか併合を一方的に宣言すること、占領地に入植すること、これら全ての行為は国際法に違反している。しかしイスラエルは、これらを国際社会から非難されても無視し続けてきた。 そして、イスラエルは東エルサレムを併合した土地だと見なしているため、イスラエルの国内法を適用し、ユダヤ人に有利な判決を出してパレスチナ人を追い出す。つまり法システムも一体となって、強制的な追放、民族浄化を図っている。この強制追放問題は、4月半ばから始まった東エルサレムを中心としたパレスチナ人とユダヤ人の衝突の原因の一つとなり、やがてこの衝突が、5月10日から始まったガザ空爆へ繋がった。

今回この記事の舞台となったナブルスの町ビータも、入植地問題をめぐって今新たな抵抗の焦点となっている町である。5月の始め、入植者グループがサビィーフ山に、国際法に違反してキャラバン(仮設住宅のようなもの)を建設し、イスラエル軍の助けを借りてパレスチナ人の立ち入りを阻止した。それ以来この町の住民は、ビータの全土地面積の30パーセントを占めるサビィーフ山の入植に抗議している。町の人々は投石やタイヤを燃やすことで抵抗をしているが、イスラエル軍は実弾、ゴム弾、催涙弾などで応戦し、最近では、15才の少年が至近距離から撃たれて亡くなった。ビータでは、ここ二か月で本稿のイーサー含め4人が犠牲になった。負傷者は数百人に達している。

今回イーサーの記事を翻訳しようと思ったきっかけは、記事の中で取り上げられている、イーサーの書いた詩の美しさが目にとまったからである。美しく、そして力強い。母、子、母乳、椅子、彼ら、といった言葉を使って、祖国との繋がりや、良心、人間性を詠い、それと同時にパレスチナ自治政府(PA)、ファタハ政権を強く批判している。詩の中の"彼ら"とは、ファタハの大統領、及び高官達のことである。イスラエルと協力し、抵抗するパレスチナ人の逮捕や、海外からの支援金の着服、評議会選挙の無期限延期、言論の自由の弾圧。随分以前からファタハの腐敗は指摘されていた。最近では、先月パレスチナ自治政府を厳しく批判していた政治活動家のニザール・バナート氏が自治政府の治安部隊に逮捕され、その後「不自然に」亡くなった。そしてここで記しておきたいのは、同様なことがガザ地区でも起こっている、ということだ。度重なる戦争や、封鎖による経済崩壊、60%を超えるとも言われる失業率、市民は深刻な貧困に喘いでいるのに、人々は自由にハマース政権を批判出来ない。なぜなら、人前でハマースへの不満を口にすると、逮捕され、投獄される恐れがあるからだ。今回この記事では、西岸に焦点が当たっているが、"祖国への愛"を表現したイーサーの詩を通して、ガザ、西岸に住む全てのパレスチナ人が、イスラエルの占領と彼らの指導者層、双方から弾圧を受けていることを、私はこの詩を通して教えられた。そして、この詩をこの追悼記事に敢えて掲載し、本記事を書いた女性記者も、全てのジャーナリストや活動家も、この二つと闘っていることを伝えたかったのであろう。本記事の翻訳許可を得るにあたり、彼女は快く許可を下さり、「パレスチナに関心をもって下さって感謝します。私は日本の皆さんが好きです。いつも、皆さんと繋がっています」とコメントを頂いた。きっとこの現状が日本に伝わることを願っての言葉だと思う。

二本目の記事は、5月16日にガザのアル=ワフダ通りを襲った空爆で、奇跡的に助かった親子の記事である。 5月10日に始まったガザ地区への数々の攻撃の中で、致命的なものの一つであるといわれている。この夜だけで、43人のパレスチナ人が犠牲になった。このワフダ通りは、ガザ市内で最も人通りの多い賑わった、そして比較的裕福な人が住む、美しい通りであった。シファ病院への主要な道路でもあり、学校や銀行、研究所、商店などが並んでいた。この通りを深夜、事前の警告なしに複数のミサイルで民間の建物を攻撃したのは、明らかに犠牲者をだすことが目的であったと言えるだろう。爆撃により、道の殆どが破壊されたので、救急車はこの通りに入ることさえ出来なかった。 今回この記事に登場するリヤード・エシュコンタナー氏は後のインタビューで、彼が住んでいたこの地域は、医者や教育を受けた人々が住む安全な地域であること、何の軍事施設もないことを訴えている。そして終わりの方で、瞬く間に全てがひっくり返ってしまった、と語っている。彼のように家族の大半を失った人は、言わずもがな他にも数多くいる。そして、家族全員が亡くなったケースもある。ガザの保健省によると、少なくとも13の家族が5月10日からの爆撃を通して、市民台帳から抹消されたと述べている。日本では、このワフダ通りを襲った攻撃は、殆ど取り上げられなかったように思うが、wahda street masscare で調べると画像だけでも沢山見ることが出来る。メディアでは、パレスチナに関する報道は日々減っていくであろう。しかし、社会の人々に関心を持ち続けて頂くためにも、この二つの記事が、検索ワードの一つとなり、少しでも多くの人の"知る"きっかけになれば幸いである。

(前書き・翻訳: 後藤美香/TUP)

本文を読む

TUP速報1019号 1月26日:インド人が共和国を取り戻した日

(2021年03月05日)

[Photo: Sanjeev Rohilla]

◎1月26日の出来事は、インド史上前代未聞の節目

本稿はアルジャジーラ紙オピニオン欄に掲載された、”January 26: The day Indians reclaimed their republic” の邦訳である。この前書きでは、複雑なインド社会を理解しやすくするために、背景を少し説明したい。

2020年にインドの国会で可決された新しい農業法が、大企業を潤し農民には不利であるとして、農民の大反発を招いた。最初は局地的であった抗議は瞬く間にインド全土を揺るがす大規模デモへと発展し、2021年春現在もまだ収拾の見込みはついていない。インド全土で2億5000万人が一斉にストライキに参加した日もあり、これらの抗議デモやストライキは歴史上最大規模の動員数と言われる。

世界中で分断が憂慮されるご時勢において、このうねりがここまで大規模にインド人を動かしたのは、既存の政党や思想、宗教やカーストといった囲いをなぎ倒し、カオス的に繋がった人々の底力と言えるだろう。

一連の抗議デモで中心的な役割を果たしてきたのは、インド有数の穀倉地帯であるパンジャブ州の農民たちで、シーク教徒が多い。彼らはインドの中で、宗教的にも歴史的にも独特の立ち位置を占めている。歴史的にはムガル帝国のムスリム勢力と何度も戦い、インドとパキスタンが宗教を元に分離独立した際には、ヒンドゥー教徒が多数のインド側についた。しかしその後、シーク教徒の国を樹立しようとインドから分離独立を求める運動が高まった時期もあり、必ずしも常に多数派のヒンドゥー教徒と良好な関係を保っていたわけではない。

また、本文中に出て来る「ダリット」とは、インドにおけるカースト制度の最底辺、あるいはカースト外に位置する「アンタッチャブル(不可触民)」と呼ばれてきた人々のことである。彼らはインド社会で長く虐げられ搾取されてきた人々で、過酷なカースト差別から逃れるために、平等を説くイスラームに改宗した人々もたくさんいる。

本文中に何度も出て来るレッド・フォートは、ユネスコの世界遺産にも登録されており、インドの共和国記念日である1月26日と切っても切れない関係にある。17世紀にムガル帝国によって建造された城塞で、デリー城、または赤砂岩でできているためラール・キラー(ヒンディー語、ウルドゥー語で「赤い城」という意味)とも呼ばれる。時代によって支配者がムガル人であったりイギリス人であったりしたが、ここに旗を掲げることは、インド人にとって支配者からの解放のシンボルでもある。その「支配者」が、今度はインド人自身、資本主義の波、あるいはヒンドゥー至上主義の政権と結びついた大企業だった。

インド近代史上もっとも右傾化した政権、また社会風潮の中で起こった2021年1月26日の出来事は、象徴的なものに過ぎないかもしれないが、カオスの中から民衆のパワーを引き出すインドらしさ、人々が運営する共和国という国の在り方を、もう一度見せてくれたと言える。

(前書き・翻訳:法貴潤子/TUP)

本文を読む

速報の一覧