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TUP速報1022号 アナンド・ゴパル『もう一方のアフガン女性たち』抄

(2021年09月27日)

Women in Afghanistan.
◎アフガニスタンの地方の庶民女性の目には戦乱の過去40年はどう映るか

ジャーナリストのアナンド・ゴパル[*]が、米国『ザ・ニューヨーカー』誌で9月6日に以下の長文記事を発表しました。

『もう一方のアフガン女性たち–地方では市民の殺戮が止むことなく、それゆえに女たちは、支援を謳う占領者を嫌う』

これは、アフガニスタンの地方(具体的には南部の山岳地帯)に住むパシュトゥーン人の女性の目を通じて、過去30年あまりのアフガニスタンを記述する調査報道記事です。記事構成の主題となるのは、農村に住む老若数十人のアフガニスタン人の女性へのインタビューです。これらの証言をそのまま報ずるだけでなく、アフガニスタン現地の公式死亡証明書や米国の公文書公開制度を使って開示請求した資料や、政府および現地関係者へのインタビューも組み合わせて、丁寧に裏を取っている様子も伺えます。

著者のゴパルは、ターリバーン統治下のアフガニスタンを取材した数少ない欧米ジャーナリストの一人です。2015年の著作『No Good Men Among the Living: America, the Taliban and the War Through Afghan Eyes (善人はみな死んでしまった–アフガニスタン人の目から見たアメリカ、ターリバーン、そして戦争)』は、ピューリッツァー賞の最終選考に残ったほど高い評価を受けています。

日本も含めた西側諸国に伝わるアフガニスタンの情報の大半は、都市部が情報源と言っていいでしょう。国連や外国駐留軍などの機関は基本的に都市部にあり、ジャーナリストが地方に旅して取材するのも容易でありません。そもそも地方は交通の便が悪く、インフラも未整備、外国人には文化的な壁もあれば言語も不自由で、そして何よりアフガニスタンでは一貫して政情不安がありました。反政府・反外国駐留軍ゲリラがずっと活動していた以上、取材に出かけるジャーナリストには相応の危険があったことは想像に難くありません。

しかし、アフガニスタンでは、都市部に住むのは人口の3割未満です。都市部以外の地域、端的には農村地方を語らずして、アフガニスタンの実情は見えてこないことは疑いありません。ターリバーン以前の内戦下、90年代後半以降のターリバーン統治下、そして2001年以降の外国占領軍の下で、過去40年間、アフガニスタン農村部がどれほどの暴虐にさらされてきたか。そしてそのような地方住民の目にターリバーンはどのように映っているのか。

主流メディアで採り上げられることの少ない側面を掘り下げた、ゴパルの貴重な報告の一部を紹介します。

なお、本稿では、ジャーナリストの春日孝之(元毎日新聞イスラマバード支局長)によるこの9月のアフガニスタンについてのオンライン講座で学んだ内容を随所に引用します(以下で、「春日によれば」などと表現している箇所です)。

(執筆: 坂野正明/TUP (文中では時に「筆者」))

凡例: 本文中に登場する訳文の中では[ ]は訳注を表す。

注[*]: 著者の名前の表記につき、米語の発音的には、「アナン・ゴーパル」のように聞こえることが多いのではと思われます。

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TUP速報1021号 「中東人」と呼ぶなかれ

(2021年08月09日)

◎その言葉に潜む意味。無意識に使っている植民地主義の遺産にご用心!

本稿は、レバノンを拠点とする汎アラブの新しいメディア、「Raseef 22」に掲載された"Don't call me 'Middle Eastern'"の邦訳である。「Raseef」とはアラビア語でプラットフォームという意味、また「22」はアラビア語を母国語とする22カ国のアラブ諸国を表している。2011年に始まった「アラブの春」の後に出て来た、比較的新しく、若者の声を中心に伝えるメディアだ。

植民地時代、ヨーロッパの支配者たちは、自分たちから見て東にある近・中距離の地域を「中近東」、または「中東」と呼んできた。しかしこの地域に住む人々にとっては当然、そこは「中東」ではなく、また日本を含む、より東側に住むアジアの人々にとっても、この地域は「中東」ではない。むしろ東アジアから見れば、地中海沿岸やペルシャ湾岸地域などは「西」にある。けれども日本語では、ヨーロッパの列強が植民地時代からずっと使って来た「中東」という言葉を、一般的な会話、ニュース、はたまた「中東」研究者に至るまで、ほとんどの人が疑問を呈することなく使ってきた。

筆者が指摘するように、本来であれば、現在「中東」と呼ばれている地域は、まだあまり広く使われていない「西アジア」という地理的な区分で呼ばれるのが妥当だろう。しかし、これを読んで今後は「西アジア」という言葉を使おうと決めた途端、問題にぶつかった。ソーシャルメディアのハッシュタグを付ける際、「中東」であれば多くの人の検索にヒットするかもしれないが、「西アジア」ではあまり検索に引っかからないのではないか、という問題だ。

そのようなわけで、当面は「西アジア」という言葉の普及に努めつつ、ハッシュタグは両方つけることになりそうだが、本稿は普段何気なく使っている言葉にも、植民地主義の遺産が潜んでいることを気づかせてくれる。

(前書き・翻訳:法貴潤子/TUP)

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速報1020号 シャヒ-ド、イーサー・バルハム / スージー...家族が犠牲となった後に、市民リヤードに残されたもの

(2021年07月13日)

ガザ地区


◎パレスチナからの、とある二つの物語

本稿は、パレスチナの日刊紙"al-quds”(5月23日付け)と、”al-haya al-jadida” (6月14日付け)に掲載された二つの記事の邦訳である。一本目の記事は、ヨルダン川西岸地区、ナブルス市の南に位置するビータという町で起こった、占領軍と若者達の衝突の際に犠牲となった、イーサー・バルハムという男性の追悼記事である。この前書きでは、その背景から説明したい。

イスラエルと周辺のアラブ諸国のとの間で、大規模な戦いが四度起こった中東戦争、その三度目の第三次中東戦争(1967)以降、イスラエルは東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区とガザ地区を占領し、それ以来、両地域の入植地建設を積極的に進めてきた。(ガザ地区では、2005年に軍、全入植者を撤退させたが、その代わりに、一部の検問所を除き、コンクリート壁などで同地区を完全に封鎖し、物資や人の移動に極端な制限を課している) 2018年には、イスラエル国会は通称「ユダヤ人国家法」と呼ばれる基本法を可決した。内容は、イスラエルがユダヤ人民族国家であること、民族自決の権利をユダヤ人にだけ認めること、ヘブライ語のみが公用語であること、そして入植地建設は国家的に推進されることが記されている。つまり、イスラエル国内では法律によって、非ユダヤ人であるパレスチナ人を合法的にアパルトヘイト政策下に置くことしたのである。

最近では、東エルサレムのシャイフ・ジャラーフ地区で、地方裁判所が住民達に「立ち退き」を命じる決定を下した。住民達は、イスラエル政府が同意した正式な権利書を持っているにかかわらず、だ。 そもそも、占領した西岸及び東エルサレムから撤退しないこと、また東エルサレムに至っては撤退どころか併合を一方的に宣言すること、占領地に入植すること、これら全ての行為は国際法に違反している。しかしイスラエルは、これらを国際社会から非難されても無視し続けてきた。 そして、イスラエルは東エルサレムを併合した土地だと見なしているため、イスラエルの国内法を適用し、ユダヤ人に有利な判決を出してパレスチナ人を追い出す。つまり法システムも一体となって、強制的な追放、民族浄化を図っている。この強制追放問題は、4月半ばから始まった東エルサレムを中心としたパレスチナ人とユダヤ人の衝突の原因の一つとなり、やがてこの衝突が、5月10日から始まったガザ空爆へ繋がった。

今回この記事の舞台となったナブルスの町ビータも、入植地問題をめぐって今新たな抵抗の焦点となっている町である。5月の始め、入植者グループがサビィーフ山に、国際法に違反してキャラバン(仮設住宅のようなもの)を建設し、イスラエル軍の助けを借りてパレスチナ人の立ち入りを阻止した。それ以来この町の住民は、ビータの全土地面積の30パーセントを占めるサビィーフ山の入植に抗議している。町の人々は投石やタイヤを燃やすことで抵抗をしているが、イスラエル軍は実弾、ゴム弾、催涙弾などで応戦し、最近では、15才の少年が至近距離から撃たれて亡くなった。ビータでは、ここ二か月で本稿のイーサー含め4人が犠牲になった。負傷者は数百人に達している。

今回イーサーの記事を翻訳しようと思ったきっかけは、記事の中で取り上げられている、イーサーの書いた詩の美しさが目にとまったからである。美しく、そして力強い。母、子、母乳、椅子、彼ら、といった言葉を使って、祖国との繋がりや、良心、人間性を詠い、それと同時にパレスチナ自治政府(PA)、ファタハ政権を強く批判している。詩の中の"彼ら"とは、ファタハの大統領、及び高官達のことである。イスラエルと協力し、抵抗するパレスチナ人の逮捕や、海外からの支援金の着服、評議会選挙の無期限延期、言論の自由の弾圧。随分以前からファタハの腐敗は指摘されていた。最近では、先月パレスチナ自治政府を厳しく批判していた政治活動家のニザール・バナート氏が自治政府の治安部隊に逮捕され、その後「不自然に」亡くなった。そしてここで記しておきたいのは、同様なことがガザ地区でも起こっている、ということだ。度重なる戦争や、封鎖による経済崩壊、60%を超えるとも言われる失業率、市民は深刻な貧困に喘いでいるのに、人々は自由にハマース政権を批判出来ない。なぜなら、人前でハマースへの不満を口にすると、逮捕され、投獄される恐れがあるからだ。今回この記事では、西岸に焦点が当たっているが、"祖国への愛"を表現したイーサーの詩を通して、ガザ、西岸に住む全てのパレスチナ人が、イスラエルの占領と彼らの指導者層、双方から弾圧を受けていることを、私はこの詩を通して教えられた。そして、この詩をこの追悼記事に敢えて掲載し、本記事を書いた女性記者も、全てのジャーナリストや活動家も、この二つと闘っていることを伝えたかったのであろう。本記事の翻訳許可を得るにあたり、彼女は快く許可を下さり、「パレスチナに関心をもって下さって感謝します。私は日本の皆さんが好きです。いつも、皆さんと繋がっています」とコメントを頂いた。きっとこの現状が日本に伝わることを願っての言葉だと思う。

二本目の記事は、5月16日にガザのアル=ワフダ通りを襲った空爆で、奇跡的に助かった親子の記事である。 5月10日に始まったガザ地区への数々の攻撃の中で、致命的なものの一つであるといわれている。この夜だけで、43人のパレスチナ人が犠牲になった。このワフダ通りは、ガザ市内で最も人通りの多い賑わった、そして比較的裕福な人が住む、美しい通りであった。シファ病院への主要な道路でもあり、学校や銀行、研究所、商店などが並んでいた。この通りを深夜、事前の警告なしに複数のミサイルで民間の建物を攻撃したのは、明らかに犠牲者をだすことが目的であったと言えるだろう。爆撃により、道の殆どが破壊されたので、救急車はこの通りに入ることさえ出来なかった。 今回この記事に登場するリヤード・エシュコンタナー氏は後のインタビューで、彼が住んでいたこの地域は、医者や教育を受けた人々が住む安全な地域であること、何の軍事施設もないことを訴えている。そして終わりの方で、瞬く間に全てがひっくり返ってしまった、と語っている。彼のように家族の大半を失った人は、言わずもがな他にも数多くいる。そして、家族全員が亡くなったケースもある。ガザの保健省によると、少なくとも13の家族が5月10日からの爆撃を通して、市民台帳から抹消されたと述べている。日本では、このワフダ通りを襲った攻撃は、殆ど取り上げられなかったように思うが、wahda street masscare で調べると画像だけでも沢山見ることが出来る。メディアでは、パレスチナに関する報道は日々減っていくであろう。しかし、社会の人々に関心を持ち続けて頂くためにも、この二つの記事が、検索ワードの一つとなり、少しでも多くの人の"知る"きっかけになれば幸いである。

(前書き・翻訳: 後藤美香/TUP)

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