TUP BULLETIN

TUP速報998号 バーニー・サンダース バチカン演説

投稿日 2016年7月5日
昔も今も、公平な経済の仕組みを求める人類の葛藤は絶え間ない。現在の日本でもオリンピックに使うお金はあるのに、毎日ご飯が食べられない子供たちが多く存在する。

それぞれの能力にふさわしい労働でなりたつ暮しは可能だろうか。搾取することなく、お互いが支えあい、分かち合う経済は可能だろうか。勤労の成果や恩恵、余剰価値の配分は誰がどのような動機で行い、誰がどのような形で享受するのか。戦争の根源である貧困を人類は克服できるのだろうか。

現在、金権政治と軍事経済の既得権益の規模が多国籍にわたり、貧困と階級の格差が世界中に広まっている。そのような世界的環境で「倫理」が果たす役割とは何か。

新約聖書マタイ福音書25:14-30に伝わるキリスト自身の資産に対する考え方からマルクスの「ゴータ綱領批判」に至るまで、経済的正義という理念の系譜は時代を超えて受け継がれてきた。西欧的な「倫理的経済」の概念は、資本主義経済の歪みを修正し、貧困を撲滅するための近代の命題に活気をもたらした。経済的には社会主義の理論の検証や実践が試みられ、倫理的には解放の神学の台頭で南米の革命の動機や韓国の民衆神学への影響が高まった。

そのような歴史と言論空間の中で、バーニー・サンダーズ上院議員は2016年4月15日、大統領選挙の民主党予備選挙中に「倫理的経済への展望」に関するバチカンの学会に招待された。この学会には中南米諸国から多くの首脳が出席していた。ボリビアのモラリス大統領の隣に着席したサンダーズは「倫理的経済の緊急性:『新しい課題』回勅25周年への回想」と題する演説文を読み上げた。

米国民主党に内部改革をつきつけ二大政党政治の癒着を揺さぶるサンダーズと、 カトリック教会の巨大な金融汚職の構造を内部から改革するために奮闘しているフランシスコ法王の非公式のツーショットには、画期的で波乱に満ちたシンボリズムが潜んでいる。

(前書き:宮前ゆかり 、翻訳:法貴潤子/TUP)

道徳的経済の緊急性:回勅「新しい課題」25周年を記念する回想

今日ここに皆様と同席でき、光栄です。そして、このローマ教皇庁立社会科学アカデミーの国際会議に招待いただき、お話できることを嬉しく思っています。今日我々は、教皇ヨハネ・パウロ2世が四半世紀前にお出しになった回勅「Centesimus Annus(邦題:新しい課題−教会と社会の百年をふりかえって)」を祝福し、現代におけるその意味に思いを馳せます。共産主義の崩壊に際し、ヨハネ・パウロ2世は真の意味での人間の自由、つまり、一人一人の人間の尊厳を守り、かつ常に公益を目指す自由を高らかに謳い揚げました。

教会の社会的教義は、産業経済に言及した最初の現代回勅である1891年の「Rerum Novarum(新しき事がらについて)」にまで遡り、「新しい課題」、そしてフランシスコ教皇が去年お出しになった素晴らしい回勅「Laudato Si(あなたは讃えられますように)」へと続き、市場経済の問題に果敢に挑んできました。現代思想において、市場経済に対する教会の道徳的教えほど深い洞察を含んだものはそうありません。

1世紀以上前、教皇レオ13世は「新しき事がらについて」の中で、今でも我々を悩ませている経済問題と課題を指摘しました。例えば、教皇が「少数による莫大な富の蓄積と、その対極にある大多数の貧困」と呼んだものです。

ここではっきり言いましょう。その状況は今日さらに悪化しています。2016年時点で、この惑星の上位1%の人間が、底辺の99%の人間すべての富より多くを所有しています。そして世界で最も裕福な上位60人が―60人ですよ―全世界の下半分である35億人より多くの富を所有しています。ごく少数がこれほど多くを所有し、これほど多くの人間がほとんど何も持たない時代において、我々はこの現代経済の基盤を非道徳的で持続不可能であると否定しなければなりません。

「新しい課題」の言葉も、今日の我々の共感を呼びます。印象的な一例を挙げましょう。

「さらに、社会と国家は、ある程度の貯金も含めて労働者とその家族が暮らして行くのに十分な賃金を保証しなければならない。このためには、労働者に対するトレーニングと能力向上に向けた継続的な取り組みを行なってスキルと生産性を高めることが必要であると同時に、入念な管理と十分な法的措置によって忌むべき搾取、特に最も弱い立場にある労働者たち、移民や社会の隅へ押しやられた人々の不利につけ込む搾取を封じなければならない。そのためには最低賃金と労働条件の交渉をする労働組合の役割は欠かせないものである。(第15段落)」

「新しい課題」の本質的なアイデアは、こうです。「市場経済は生産性と経済的自由にとっては有益だ。しかし、利益の追求が社会を支配することを許し、労働者が金融システムの使い捨て歯車となり、権力と富の多大な不均衡が貧しい者や力のない者を隅に押しやるなら、共益は損なわれ、我々は市場経済に敗北することになる。教皇ヨハネ・パウロ2世はこうおっしゃった。不正な搾取、投機、または労働者の連帯を挫くような行為によって得られた利益は、正当化できる理由がない。これは天地にかけて明らかな、力の乱用と言えよう。(第43段落)」

東ヨーロッパで共産主義支配が崩壊してから、25年が経ちます。際限のない金融の行き過ぎに対して教皇ヨハネ・パウロ2世が発した警告は、今顧みても深い先見の明があったと言えましょう。「新しい課題」から25年後の今、投機、反道徳的な資金の流れ、環境破壊、そして労働者の権利の弱体化は、四半世紀前よりもはるかにひどくなっています。金融の行き過ぎは、まさにウォール・ストリートに金融犯罪をはびこらせ、大恐慌以来、世界最悪の金融危機の直接的な引き金になりました。

1991年以来起こってきたことを理解するには、政治的分析と共に道徳的、人類学的分析も必要です。危険をはらんだ金融の上に成り立つ世界市場経済は、無秩序なグローバリゼーションと一緒になって、かつて公益を守っていた法的、政治的、道徳的制約を打ち破ったと言えます。世界最大の金融市場の母体である我が国は、グローバリゼーションを口実にして銀行の規制緩和を行なったり、労働者と小企業のために何十年も続いていた法的保護を停止したりしました。政治家は大手銀行と手を組んで、銀行が「大きすぎて潰せない」ようになるのを許しました。その結果、米国経済と世界の多くの国々は八年前、1930年代以来最悪の経済衰退に陥ることになったのです。労働者は仕事や、家、貯金を失った一方で、政府は税金で銀行を救済しました。

理解に苦しむところですが、米国の政治システムはこの無謀な金融規制緩和というギャンブルに倍賭けし、米国最高裁判所が連発した甚だ見当違いの判決で、米国の政治に前代未聞の規模でお金を流れ込みました。これらの判決はあの悪名高きシティズンズ・ユナイテッド訴訟として実を結び、その結果、億万長者や巨大企業による巨額の政治献金の蛇口が開かれ、米国の政治システムが偏狭で欲まみれな億万長者や巨大企業にとって有利なものになりました。こうして、億万長者が選挙を買収できるシステムが構築されたのです。私たちは共益を目指す経済の代わりに、どんどんおいてけぼりにされる労働者、若者、貧しい者を尻目に、どんどん金持ちになっていくトップ1%のための経済を持つはめになりました。そして億万長者や銀行は、選挙運動への投資見返りとして、特別な税金優遇や労働者よりも投資家に有利になるいびつな貿易合意などを手に入れ、多国籍企業には、規則に従わせようとする政府よりも強大で超法規的な力さえ与えられました。

しかし、ヨハネ・パウロ2世とフランシスコ教皇のお二人が米国と世界に警告を発したように、その結果は経済バブルや労働者階級の人々の生活水準が下がったといった悲惨な影響だけにとどまりませんでした。人々が政治的・社会的な制度を信用しなくなり、一国の魂そのものが損なわれてしまいました。フランシスコ教皇は「今、支配権は人間にではなく、お金にある。お金が支配しているのだ」とおっしゃいました。また、教皇は「我々は新しい偶像を作り出した。真の人間的な目的を失った正体不明の拝金主義と経済独裁が、新たに、いにしえの『金の子牛』信仰の無慈悲な偶像となったのだ」ともおっしゃいました。

更に、こう言われました。「少数の者の収入が劇的に増えたのに対し、大多数の者の収入は激減した。この不均衡は市場と金融投機は絶対的自立性を持つべきだというイデオロギーを盾に、国が介入する権利を否定する。国というものは共益をもたらす責務を負っているにも関わらずである。」

フランシスコ教皇は「Evangeli Gaudium(福音の喜び)」において、世界に向けて「(人間に)奉仕せず、支配しようとする金融システムを否定しよう」と呼びかけられました。そして、金融界の幹部や政治指導者に対して、倫理的な考慮にのっとって金融システムの改革を押し進めるよう呼びかけました。教皇は率直に、そしてきっぱりと、倫理的な経済における富や資源の役割は、主人ではなく下僕でなくてはならない、と述べられました。

開き続ける貧富の差、社会の隅に追いやられた者達の絶望、政治を支配する企業の力、といったものは米国だけの現象ではありません。無秩序なグローバル経済の行き過ぎは、発展途上国に更に深いダメージを与えました。彼らはウォール・ストリートのにわか景気と不景気の波に翻弄されただけでなく、汚染より利益を、気候変動の安全性より石油会社を、平和より武器売買を優先する世界経済に苦しめられて来ました。新たに生み出される富と収入がごく一部の上層部へとどんどん流れ込む中、この言語道断の不公平は、重要な課題です。富と収入の不均衡の問題は、現代における重大な経済問題であり、重大な政治問題であり、重大な道徳問題であります。これは我が国で、そして世界中で立ち向かわなければならない問題です。

フランシスコ教皇は現代社会の窮状にぴったりの名前を授けて下さいました。無関心のグローバリゼーションという名前です。「ほとんど無意識のうちに」「我々は貧しい者のさけびを聞く慈悲の心を、他者の苦痛を思って泣くことを、そして他者を助けたいという衝動を忘れてしまいました。まるでその責任は他の誰かのものであって、自分たちのものではないかのように」と教皇はおっしゃいました。ウォール・ストリートでは金融詐欺は当たり前どころか、多くの場合新しいビジネス・モデルになったことすらありました。トップの座にある銀行家たちは自らの悪行を恥じることもなければ、民衆に謝ることもありませんでした。彼らが払った何十億ドルという金融詐欺の罰金でさえ、単にビジネスをするためのコストであり、不正な利益を得るための近道でしかありません。

巨大な金融機関と争っても無駄だ、市場経済が一旦道徳的な一線を越えてしまったら道徳と共益の下にそれを律することなど不可能だ、とお思いになる方もいらっしゃるでしょう。私は何度も何度も、富豪や権力者、そして彼らの代弁者である主要メディアにこう言われて来ました。「現実的」になれ、現状を受け入れろ、真に道徳的な経済など夢物語だ、と。しかしフランシスコ教皇自身が、こういった絶望とシニシズムに抵抗する、実に世界最強のお手本です。教皇は、慈悲、正義、よりよい世界への可能性を取り戻せる可能性がある、と再び世界中の人々の目を覚めさせました。私たちの共同体のために、新しいグローバルな合意にたどり着けるよう、インスピレーションを与えてくれています。

私は米国の若者の間に希望と可能性が芽生えているのを、日々感じます。若者は汚職と機能不全に陥った政治、硬直化した不平等と不正義のはびこる経済に、もはや黙ってはいられません。気候変動や私たちの地球の未来よりも、目先の利益を優先する欲得まみれの化石燃料産業が環境破壊をすることに納得できません。彼らは破壊するのではなく、自然と調和して生きることを望んでいます。公正さの復活を呼びかけ、一人一人が、富める者も貧しい者も、質の高い医療サービス、栄養、教育を享受できるように、共益を守る経済を求めて声を上げています。

去年フランシスコ教皇が「あなたは讃えられますように」の中で力強くはっきりとおっしゃられたように、我々は自分たちの問題―貧困から気候変動、医療から生物多様性の保護まで―を解決する技術とノウハウを持っています。そのための資金も潤沢にあります。特にパナマ文書が明らかにしているように、富裕層が自分たちの資金を闇に包まれた世界の租税回避地に隠したりせず、払うべき税金を公正に払えばなおさらです。

私たちの惑星が直面している問題は、主にテクノロジーの問題でもなく、金融の問題ですらありません。なぜならば私たちは自らの需要を満たし、地球を守るだけの技能、インフラ、技術的ノウハウへの投資を強化するのに十分な富を蓄えているからです。我々の課題は主に道徳的なものであり、公共の利益のために努力とビジョンの舵を切り直すことにあります。今日私たちが祝福し、思いを馳せる回勅「新しい課題」と「あなたは讃えられますように」は強力で雄弁、かつ希望に満ちた可能性のメッセージです。これらから学び、私たちの時代の共益のために勇気ある行動を起こすこと、これは私たち次第なのです。


原文: Bernie 2016 Prepared Remarks, April 15, 2016
“The Urgency of a Moral Economy: Reflections on the 25th Anniversary of Centesimus Annus”