TUP BULLETIN

速報 353号☆水爆実験とビキニ環礁の人びと★ 04年8月6日

投稿日 2004年8月6日

☆水爆実験とビキニ環礁の人びと★
アメリカの軍事優先政策がもたらす荒廃は、今に始まるものではなく、アフガニスタンやイラクに留まるものでもありません。1948年、ビキニ環礁で核実験を始めるにあたり、米国は島民に「世界平和のため」と説明したそうです。今年は54年3月1日のビキニ水爆実験から50周年に当たります。今も実験の身体的・社会的後遺症に悩むビキニの人びとを代表する声に耳を傾けてみましょう。 /TUP 井上

ニュークリア・フォールアウト[死の灰・核実験の影響]

2004年3月1日、ブラボー水爆実験50周年記念日における
ビキニ環礁選出、マーシャル諸島共和国上院議員トマキ・ジュダの談話
掲載サイト: マーシャル諸島住民に奉仕する! ヨクエ・オンライン
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本日3月1日は、史上最大の米国核実験、ブラボーの50周年記念日です。今日は、わたしたちにとって、またマーシャル諸島全域にいる、わたしたちの友人や縁者たちにとって、悲しみの日です。あの実験は、またあの日は、放射能そのものと同じく、半世紀をへだてた今もマーシャル諸島に居座りつづけ、放射能と同じく、消え去るものではありません。

ここにいる皆さんは、たいていわたしたち島民の物語はすでにご存知でしょう。歴史の本や政府報告に書かれていますし、映画にもなりました。次の日曜日3月6日は、第二次大戦後、最初の原子爆弾実験「クロスロード(分かれ道)作戦」のために、米国海軍の手で、わたしたちがみずからの島々から連れ出された日の58周年にあたります。

わたしたちは、まずロンゲリクに移され、そこですんでのところで餓死する寸前にいたり、次いでクワジェリン[米国のミサイル実験発射場が所在する環礁]へ、そして1948年、最終的にキリへと連れていかれました。悲しいことに、いまでもキリは、大部分のビキニ環礁出身者の居住地であり、その島での生活は困難なままです。ビキニ環礁は、23の島々と630平方キロメートルものラグーン[礁湖]を擁しているのに対して、キリはただの孤島です。ビキニの陸地面積はキリの9倍の大きさがあります。なお悪いことに、今日のわが同胞の人口は、1946年に比べて、15倍に膨れ上がっています。キリには、外海から隔絶した漁場がありませんので、ラグーン生態系に適応したわたしたちの腕前は、キリでは役に立ちません。その昔、わたしたちは、目路の届くかぎり、はるかな陸地、漁場、島々をめざして、アウトリガー・カヌーで航海したものです。今日のわたしたちは、リーフ[珊瑚礁、岩礁、砂州など]もなく、ラグーンもない小島に幽閉されてしまった囚人なのです。

さて、1946年から58年にかけて、米国はビキニで23回の原水爆実験をおこない、そのひとつが、当時としては世界史上最大の人工爆発、48年のブラボー実験だったのです。ブラボー水爆の破壊力は想像を絶します――

  • 爆発エネルギーはヒロシマ級原爆の1000倍。
  • 直径6400メートルの火球を発生し、それが実験地の島の全部および2つの島の一部を蒸発させ、直径1600メートル、深さ60メートルの穴をビキニのラグーンに残す。
  • ラグーンを南側に約23キロメートル渡った対岸の島にある建物の大部分が破壊された。
  • 38キロメートル離れたエネウ島に設置されたコンクリート製爆風防護壁が基礎から外れるほど、強力だった。
  • 400キロメートル離れたクワジェリンで、強風が吹き荒れ、建物が地震のように揺れた。
  • わたしたちに周知のように、いわゆる“予想外”の結果として、風向きが変わり、降下物が、北へではなく、まともにビキニ島へ、そして風下のロンゲラップおよびウトリクへと流されていった。
  • 死の灰が1万8000平方キロメートルの面積を覆った。これはどれほど大きな区域なのだろうか? 次のように考えてみよう。ブラボーの爆心地をワシントンとし、降下物が北へ向かうと仮定すれば、ワシントンからボストンまでの地域にいる全員が死んでしまう。
  • 実際、同年3月末の記者会見で、アイゼンハワー大統領が、アメリカの科学者たちはブラボー爆発の規模に“ビックリ仰天”したと語った。

では、わたしたち住民はどうなったのでしょう? 1968年、リンドン・ジョンソン大統領が住民は帰島できるとした、ビキニ環礁安全宣言に続く一時期を除き、わたしたちは故郷から追放されています。あの時、わたしたちの多くが島に帰り、そこに住みましたが、それも、アメリカの医師たちによる医学検査の結果、わたしたちが既知の人間集団のなかで最大の放射性物質を摂取してしまっていると判明した1978年までだったのです。
歴史は悲しくも繰り返し、1978年8月末、わたしたちのラグーンに米国船舶がふたたび入り、わたしたちを詰め込み、出発しました。なにが間違っていたのでしょう? AEC[米国原子力委員会]の科学者たちがわたしたちの放射線被曝量を推測したのですが、計算で誤りを犯し、位取りで100倍間違ってしまったのです。当時、「単純ミスでヘマをやった」と科学者のひとりが記者に語りました。

ブラボーの結果、良いことがひとつありました。それがあまりにも凄まじく、驚くべきものだったので、大きな国際的論争を巻き起こし、それがやがて米国による大気中核実験の停止に、そしてケネディ大統領が1963年に暗殺される直前に署名したのですが、米ソ部分的核実験禁止条約に繋がりました。

ブラボーの悲劇は、今日もわたしたち住民を苦しめつづけています。50年の歳月が過ぎ去りましたが、ブラボーはいまだにわたしたちと共にあるのです。1954年3月1日から現在まで、わたしたちの島々は放射能で汚染されたままです。いつになるのか分からない故郷帰還の日まで、わたしたちは待ち、なおも待ちつづけます。

これで、ビキニの人びとにとって、3月が悲しみと追憶の時期であるのは、どうしてなのか、皆さんにお分かりになるでしょう。ありがとうございました。


[スピーカー]トマキ・ジュダ上院議員は、ビキニの伝統的な首長キング・ジュダの末の息子。1972年、環礁首長に初当選、2000年まで在任。同年、ヘンチ・バロス死去に伴い、マーシャル諸島共和国上院議員に当選。03年11月、再選(改選は、4年毎)
[原文]NUCLEAR FALLOUT: STATEMENT OF BIKINI ATOLL SENATOR TOMAKI JUDA ON THE 50TH ANNIVERSARY OF THE BRAVO SHOT:
Bravo Day, March 1, 2004, Marshall Islands Yokwe Online, dedicated to the people of the Marshall Islands!
http://www.yokwe.net/modules.php?op=modload&name=News&file=article&sid=715&mode=thread&order=0&thold=0
Copyright C 2004 Tomaki Juda――「ビキニの人びと」渉外担当、ジャック・ニーデンタール氏(Jack Niedenthal,Trust Liaison for the People of Bikini)により、TUP配信許諾。


[翻訳] 井上 利男 /TUP