TUP BULLETIN

速報988号 シーモア・ハーシュ:犯行現場(上)――ソンミ村大虐殺再訪

投稿日 2015年8月10日
○「ベトナムにはたくさんのソンミ村があったのです」

1968年に米国で隠蔽されていたソンミ村大虐殺事件を明るみに出したハーシュは、ベトナム戦争終結40年の今年、 初めて事件の現場を訪れ、当時と今をつなぐ記事を書きました。

ベトナム戦争拡大を招いた、でっち上げの「トンキン湾事件」は 1964年8月でした。私たちの記憶する8月とベトナム戦争の8月。 戦争はいつも嘘に基づいて行われ、苦しみしかありません。『世界』7・8月号に掲載されたハーシュ記事の邦訳を二回に分けて配信します。

(前書き・翻訳:荒井雅子/TUP)

犯行現場(上)――報道記者がソンミ村と隠された過去を訪れる
シーモア・ハーシュ

ソンミ村には長い用水路がある。一九六八年三月一六日、用水路には遺体が折り重なっていた――何十人もの女性、子ども、老人、みな若い米兵によって銃撃されたのだ。四七年を経た今、村の用水路は、虐殺の報道写真で見た記憶より幅広いように思える。侵食作用と時のなせる業だろう。ベトナム戦争当時、付近には田が広がっていたが、今は観光客が来やすいよう舗装されている。毎年数千人以上が村を訪れ、あの恐ろしい出来事を記した、目立たない標識の横を散策する。ソンミ村の大虐殺は、あの愚かな戦争の一つの節目だった。約一〇〇人の兵士からなる分遣隊、C中隊は不正確な諜報を伝えられ、べトコン(南ベトナム解放民族戦線のゲリラ部隊の俗称)部隊かその支援者と遭遇するとばかり思っていたが、そこにあったのはただ、朝食中の平和な村だった。にもかかわらず、C中隊の兵士たちは、ソンミ村の女性を強姦し、家を焼き払い、丸腰の市民にM-16銃を向けた。襲撃の指揮をした一人が、マイアミ出身で短大を中退したウィリアム・L・カリー少尉だった。

一九六九年初めには、C中隊隊員の大半は服務を終えて帰国していた。当時私は三二歳で、ワシントンでフリーの記者をしていた。少年と言ってもいいような若者になぜこんなことができたのか、どうしても理解したくて、何週間もかけて彼らを追った。多くの場合、彼らは包み隠さずおおむね率直に話をし、ソンミ村で何をしたか、どうやってその記憶とともに生きて行くつもりかを語ってくれた。

軍の調査の証言で一部の兵士は、用水路のところにいたことは認めたが、村人の殺害を命じるカリーの命令には従わなかったと主張した。彼らによれば、カリー自身のほかに銃撃の中心となった兵士の一人が、ポール・ミードロ上等兵だった。真実は突き止め難いが、仲間の兵士の大半が鮮明に覚えている――というのを私は後で知った――瞬間のことを、一人のGIが語ってくれた。カリーの命令で、ミードロをはじめとする兵士たちは用水路の中に向かって一斉射撃を何度も繰り返し、手榴弾を数発投げ込んでいた。

すると甲高い泣き声がして次第に大きくなり、泥と血にまみれた二、三歳の男の子が折り重なった体の間から這い出して田の方へ駆け出した。母親が身を挺してかばったらしい。それを見たカリーは、証言者によれば、その子を追いかけ、引きずり戻して用水路に放り込み、撃った。

大虐殺の翌朝、ミードロは通常のパトロール中に地雷を踏み、右足を吹き飛ばされた。野戦病院に搬送するヘリを待つ間、ミードロはカリーをなじった。「おまえに今にきっと神の罰が下る。おまえがやらせたんだ」。ミードロがそう言っていたと、あるGIは記憶している。

「そいつをヘリに乗せろ!」とカリーは怒鳴った。

ミードロはヘリが到着するまで、カリーをののしり続けた。

ミードロはインディアナ州西部の農場地帯の出身だった。公衆電話に延々と小銭を入れてインディアナ中の案内係を呼び出した末に、私はテレホートに近い小さな町ニュー・ゴーシェンにミードロ姓の家族を見つけた。電話に出た女性は、ポールの母マートルだった。私は記者でベトナムのことを書いていると説明した。ポールの様子を尋ね、翌日訪問して彼と話せるか訊いた。彼女は、ともかく来てみたらどうかと言った。

ミードロ家は、おんぼろ養鶏場の下見板張りの小さな家に住んでいた。私がレンタカーを停めると、マートルが迎えに出てきて、ポールは中にいると言ったが、息子が話をするか、何を言い出すか、彼女にはわからなかった。ポールがベトナムのことをあまり話していないのは明らかだった。その後マートルが言った言葉は、私が嫌悪を募らせていた戦争を端的に表していた。「兵隊にやる前はいい子でしたよ。それが軍隊で人殺しになってしまったんです」

ミードロは私を招き入れ、話をしてもいいと言った。このとき二二歳。ベトナムに行く前に結婚して、二歳半の息子と赤ん坊の娘がいた。負傷にもかかわらず、工場で働いて家族を養っていた。私は傷を見せてくれないかと切り出し、治療のことを話してほしいと頼んだ。彼は義足をはずして、経過を話してくれた。話はやがてソンミ村のことになった。ミードロは次から次へと話し続け、何とかして少しでも自尊心を取り戻そうとしているのがありありとわかった。ほとんど感情を交えず、カリーの殺害命令の話をした。ソンミ村での自分の行為を正当化することはなかったが、ただ、殺害で「確かに胸のつかえが下りた」と言った。「失った戦友」のためであり、「復讐をしただけだ。それだけだ」

ミードロは自分の行動を、恐ろしい細部に至るまでこまごまと話した。「[ソンミ村に]ベトコンがいるはずだったから、村の掃討を始めた」と彼は言った。「村に着くとすぐ、村人を集め始めて……いくつかの大人数の集団にした。村の真ん中の大きな円の中には四〇人か五〇人くらいいたに違いない……。カリーが、自分とほかの二、三人に、その村人を見ているように言った」。カリーは、ミードロの記憶によれば、一〇分後に戻ってきて彼に言った。「さあ、やれ。生かしてはおかない」。ミードロの話では、カリーは三、四メートル離れたところから「村人を撃ち始めた。それから自分にも撃てと言った……自分は撃ち始めた。でも他の連中は撃とうとしなかった。それで自分たちが」――ミードロとカリーが――「撃ち続けて、円の中にいた村人を殺した」。ミードロは円の中では一五人くらい殺したのではないかと言う。「自分たちはみんな命令を受けていた」と彼は言った。「自分たちはみんな正しいことをしていると思っていた。そのときは何とも思わなかった」。

ミードロが実はカリーの命令に激しく取り乱していたことを示す正式な証言がある。一人のC中隊員の話によると、カリーに「この集団の面倒を見ておく」ように言われた後、ミードロともう一人の兵士は「実際に子どもと遊んだり、村人に座る場所を指示したり、子どもにキャンディをやったりした」。同じ兵士の話によると、カリーが戻ってきて、村人を生かしておかないと言ったとき、「ミードロは信じられないというふうに、ただカリーの方を見た。ミードロは言った。”殺すんですか”」。別の兵士の証言によると、カリーがそうだと答え、ミードロとカリーは「銃を撃ち始めた」。しかしその後、ミードロは「泣き出した」

CBSのマイク・ウォレスが私のインタビューに興味をもち、ミードロは、全国放送でもう一度自分の話をすることを承諾した。放送の前夜、私はミードロ家のソファで過ごし、翌朝夫妻と一緒にニューヨークへ飛んだ。少しゆっくり話ができて、彼が療養とリハビリのために日本の米軍病院で数週間過ごしていたことを初めて聞いた。帰国してから、ミードロはベトナムで経験したことについて何も話さなかった。帰国後間もないある晩、妻は、子ども部屋の一つで火のついたような泣き声がするので目が覚めた。部屋に駆け込むと、ポールが子どもを激しく揺さぶっていた。

***

ソンミ村の情報を最初に知らせてくれたのは、ワシントンの若い反戦弁護士ジェフリー・コーワンだった。コーワンは詳しいことは知らなかったが、一人のGI――名前はわからない――が狂気に走り、ベトナム民間人を多数殺害したことを耳にしていた。私はその三年前、AP通信のために国防総省の取材をしていたとき、ベトナム帰りの将校から、ベトナム民間人の殺害が行われているという話を聞いていた。コーワンの情報を手がかりに調べていたある日、私は国防総省関係で顔見知りになっていた若い大佐にばったり会った。彼はベトナムで脚に負傷し、療養中に将官への昇進話が届いていた。そのときは戦争の日常業務担当部署にいた。名前のわからないそのGIのことで何か知っているかと尋ねると、大佐は鋭い怒りの視線を私に向け、自分のひざを手で強く叩き出した。「あのカリーって小僧は、これより背の高い相手を撃ったことなんかない」

これで名前がわかった。私は地元の図書館で、『ニューヨーク・タイムズ』紙に埋もれていたカリーという中尉[事件後まもなく昇進]についての短い記事を見つけた。南ベトナムで民間人――人数は書かれていない――を殺害したとして軍の告発を受けたとあった。軍がジョージア州コロンバスのフォートベニング基地で上級将校宿舎に身柄を隠していたカリーを、私は探し出した。それより前に、ある軍関係者の助力で、カリーに対する機密告発書を読み、メモをとることができた。容疑は「東洋人」一〇九人の計画的殺人とされていた。

カリーは悪魔のような人間にはとうてい見えなかった。二〇代半ば、か細い神経質そうな男で、ほとんど透き通るような白い肌をしていた。たくましく見せようと懸命になっていた。ビールを何杯も飲みながら、ソンミ村での激しい銃撃戦の中で、自分と部下の兵士がいかに敵と交戦し、殺害したかを話した。途中でカリーは中座して手洗いに立った。ドアが少し開いたままになっていて、カリーが血を吐いているのが見えた。

一九六九年一一月、私はカリーとミードロと大虐殺について五本の記事を書いた。『ライフ』と『ルック』へ持ち込んだが断られ、それでワシントンの小さな反戦ニュース通信社『ディスパッチ・ニュース・サービス』に持ち込んだ。懸念と不安が募っていた時期だった。リチャード・ニクソンは、戦争終結を公約して一九六八年の大統領選挙に勝ったが、ニクソンの本当の計画は、戦争の拡大と秘密爆撃によって勝利を収めることだった。一九六九年に入っても、米兵の死者は毎月一五〇〇人にも上った――[最悪の数の死者を出した]前年とほとんど変わっていなかった。

ホーマー・ビガート、バーナード・フォール、デイヴィッド・ハルバースタム、ニール・シーハン、マルコム・ブラウン、フランシス・フィッツジェラルド、グロリア・エマソン、モーリー・セイファー、ウォード・ジャストといった戦場ジャーナリストが、戦場から数え切れないほどの記事を発信しており、そうした記事によって、この戦争が倫理的には根拠がなく、戦略的には敗北したものであること、米国の軍・政府官僚がサイゴンとワシントンの一般市民に描いて見せているようなものではまったくないことが、次第に明らかになっていた。一九六九年一一月一五日、私の最初のソンミ村記事が掲載された二日後、ワシントンの反戦デモに五〇万人が集まった。ニクソンの信頼篤い首席補佐官H・R・ハルデマンが上司との大統領執務室でのミーティング中にとったメモが、一八年後に公開されている。メモによれば、一九六九年一二月一日、ポール・ミードロの告白をめぐって非難が高まる中、ニクソンは、大虐殺の重要証人の信用を落とすために「不正工作」を使うことを承認した。一九七一年、軍陪審団がカリーを大量殺人で有罪とし、終身刑を宣告すると、ニクソンが介入し、カリーを軍刑務所から仮釈放して再審理を待つあいだ自宅監禁とするよう命じた。カリーはニクソン辞任の三カ月後に釈放され、その後はジョージア州コロンバスにある義父の宝石店で働き、金を払ってくれるジャーナリストに虫のいいインタビューを提供した。ようやく二〇〇九年になって、キワニス・クラブでのスピーチで、ソンミ村のことで「良心の呵責を感じない日は一日もなかった」と話したが、自分は命令に従ったのだと言った――「愚かにも、と思います」。カリーは現在七一歳。ソンミ村大虐殺の責任を問われて有罪になった将校は彼だけだ。

一九七〇年三月、軍の調査によって一四人の将校が殺人から職務怠慢に至る罪で告発された。[師団トップの]将官や大佐らが含まれており、彼らは大虐殺の隠蔽の罪に問われた。その後、カリー以外に軍法会議にかけられた将校は一人だけで、その将校は有罪とならなかった。

それから二、三カ月ほど後、各地の大学で反戦デモが最高潮に達していたころ――オハイオ州[ケント大学]のデモでは州兵によって四人の学生が殺された――、私はミネソタ州セントポールのマカレスター大学に反戦スピーチをしに行った。リンドン・ジョンソンの忠実な副大統領だったヒューバート・ハンフリーがマカレスター大学の政治学教授職に戻っていた。ハンフリーが一九六八年の大統領選でニクソンに敗れた理由の一つは、ジョンソンのベトナム政策と一線を画すことができなかったからだ。スピーチが終わると、ハンフリーは話がしたいとやってきた。「ハーシュさん、あなたにとやかくいうつもりはない」とハンフリーは言った。「あなたはご自分の仕事をしたまでだ。いい仕事をされました。しかしね、”おい、L・B・J、今日は何人子どもを殺した?”と言ってデモ行進しているあのヒヨっ子どもには」、ハンフリーの肉付きのいい丸顔は真っ赤になり、一節ごとに声が大きくなった。「こう言いますね。”くそくらえ、くそくらえ、くそくらえ”」

***

数カ月前、私は家族とともに初めてミライ地区(集落は米軍ではそう呼ばれていた)を訪れた。ジャーナリストがある年齢になって犯行現場に戻るとは月並みな話だが、誘惑に勝てなかった。一九七〇年初め、南ベトナム政府に入国許可を申請したことがあったが、当時は米国防総省の内部調査が行われており、部外者は立ち入りを許されなかった。一九七二年、『ニューヨーク・タイムズ』紙に入って、北ベトナムのハノイを訪れた。サイゴン陥落五年後の一九八〇年にもベトナムを再訪して、本を書くためのインタビューを行い、同紙に記事も書いた。ソンミ村大虐殺について知るべきことは、ほぼ知り尽くしていると思っていた。言うまでもなく私は間違っていた。

ソンミ村は、かつてサイゴンと呼ばれていたホーチミン市とハノイを結ぶ一号線から遠くない、ベトナム中部[クアンガイ省]にある。ソンミ事件記念館館長ファン・ターン・コンは大虐殺の生存者だ。五〇代後半、がっしりした体と厳しい面持ち。初めて会ったときは、自らの個人的な体験についてはほとんど語らず、堅苦しい決まり文句しか口にしなかった。ベトナム人は「客人を温かく迎え入れる国民」だと言い、非難がましい口調は一切避けていた。「われわれは赦します。しかし忘れることはありません」とコンは言った。その後、小さな記念館の外のベンチに一緒に腰を下ろすと、コンは記憶に刻みつけられている大虐殺のことを語った。当時一一歳。米軍のヘリコプターが村に着陸したとき、コンと母親、四人の兄弟姉妹は、わらぶきの家の中にある、粗末な避難壕の中にうずくまったという。米兵は壕から出るように命じ、その後、コンたちを中に押し戻して後ろから手榴弾を投げ込み、M‐16銃を撃った。コンは頭皮、右わき腹、脚の三カ所に傷を負い、気を失った。意識を取り戻すと、折り重なった遺体の間にいた。母親、三人の姉妹、そして六歳の弟。米兵は、コンも死んだと思ったに違いない。午後になって、米軍のヘリコプターが去ったとき、父親とほかに生き残った数人の村人が、死者を埋葬しに来て、コンを見つけた。

その後で私の家族も一緒に昼食をとったとき、コンは言った。「あの苦しみを忘れることは決してありません」。コンは仕事でも決して苦しみを忘れ去ることができない。数年前、ケネス・シールという米帰還兵が記念館を訪ねてきたという。シールはソンミ村にいた。C中隊隊員で記念館を訪ねてきたのは当時シールだけで、大虐殺四〇年を記念するアルジャジーラ・テレビのドキュメンタリー撮影のためだった。シールは、ミシガン州フリントに近い小さな町シュウォーツクリークで高校を卒業した後、軍に志願、事件後の調査で村人九人の殺害の罪に問われた。(告発は却下された。)

ドキュメンタリーにコンとの会話の場面がある。コンは、シールがベトナム帰還兵だということは聞かされたが、ソンミ村にいたことは伝えられなかった。ドキュメンタリーでシールはインタビュアーに言っている。「撃ったかって? 何が間違っているか気づくまでは撃ったと言おう。村人を撃ったかどうか言うつもりはない」。大虐殺に加わっていたことが明らかになった後、コンとの会話で、シールはさらに言葉を濁した。「ミライ地区の人たちに謝罪」したいと繰り返すものの、それ以上のことは言おうとしない。「なぜこんなことが起きたのか、ずっと自問し続けている。わからない」

コンは尋ねる。「民間人に向かって銃撃し、殺したとき、どんな気持ちでしたか。心が痛みましたか」。自分は民間人の集団を撃った兵士の中にはいなかったとシールは言う。コンは答える。「では、もしかしたら私の家に来て家族を殺したかもしれない」

記念館のファイルに、会話の続きが記録されている。シールは言う。「今、私にできるのは、ただ謝罪することだけです」。コンの口調は沈痛さを増していき、シールに自らの罪を包み隠さず話すよう求め続けるが、シールはただ「申し訳ない、申し訳ない」と言うばかりだ。基地に戻って食事を口にすることができたかとコンが尋ねると、シールは泣き出す。「これ以上質問をしないでください」とシールは言う。「平静でいられない」。それからシールは、大虐殺四〇年の追悼式典に自分も列席してよいかと尋ねる。

コンははねつける。「あまりにも恥知らずです」とコンは言い、付け加える。「大虐殺に加わった人間とわかったら、地元の人たちはどんなに怒るでしょう」

記念館を辞する前に私は、なぜシールに対してあれほど厳しい姿勢を示したのかとコンに尋ねた。コンの表情が険しくなった。自らの行為を全面的に引き受けようとしないソンミ村帰還兵の苦しみを軽減してやる気はない、とコンは言った。大虐殺の後コンは父親と暮らしたが、ベトコンに協力していた父親は一九七〇年、米軍戦闘部隊との交戦で戦死した。コンは近くの村の親戚に引き取られ、牛の世話を手伝った。ようやく、戦争が終わった後になって、学校に戻ることができた。

コンと記念館職員がまとめた総合的な統計から学ぶことはまだあった。展示室の一つを圧する大理石の板に、死者の名と年齢が刻まれている。記念館による死者数はすでに定説と言っていい。犠牲者は二四七家族五〇四人。二四家族は全滅――三世代が虐殺され、生存者は誰もいない。女性は一八二人、うち一七人は妊娠していた。一七三人の子どもが命を奪われ、うち乳幼児が五六人。六〇人の高齢男性が死亡。記念館の記録にはもう一つの重大な事実が含まれていた。あの日の大虐殺は、ミライ地区(ミライ第四地区とも呼ばれる)だけでなく、米軍がミケ第四地区と呼んでいた姉妹集落でも犠牲者を出していた。一・五キロメートルほど東にある、南シナ海に面したこの集落は、別の米軍分遣隊、B中隊の襲撃を受けた。犠牲者はミライ第四地区で四〇七人、ミケ第四地区で九七人と、記念館の記録にある。

この事実が示していることは明らかだ。ミライ第四地区で起きたことは、一度限りでも特異なことでもなかった。犠牲者はより少ないが、B中隊によって同じことが行われていた。B中隊はC中隊と同じ部隊――バーカー機動部隊に属していた。バーカー機動部隊はアメリカル師団の所属であり、同師団の戦闘部隊によってあの日に行われた作戦の中で、ソンミ村襲撃は突出して重要度が高かった。師団長サミュエル・コスター少将をはじめとする師団幹部は、一日中この地域に空から出入りして、作戦の進行をチェックした。

これには醜悪な背景があった。一九六七年には、南ベトナムのクアンガイ、クアンナム、クアントリの三省で米軍にとって戦況は悪化していた。この三省は、サイゴン政府と距離をおき、ベトコンと北ベトナムを支持していることで知られていた。クアントリ省は、ベトナムでもっとも激しい爆撃を受けた省の一つだ。米軍機はこの三省に、オレンジ剤をはじめとする枯葉剤を大量に浴びせた。

今回の旅で、統一ベトナムの首都ハノイに五日間滞在した。引退した軍将校や共産党官僚から、ソンミ村大虐殺は米国内の反戦の声を高まらせ、北ベトナムの戦勝に貢献したと聞いた。また、ソンミ村大虐殺が他と違うのはただ規模の大きさにおいてだけだと何度も繰り返し聞かされた。もっとも歯に衣着せぬ評価を下したのは、ベトナムではマダム・ビンと呼ばれて知らない人のない、グエン・ティ・ビンだった。一九七〇年代初め、パリ和平交渉の南ベトナム解放民族戦線(南ベトナム共和国臨時革命政府)代表を務め、率直な物言いと颯爽とした美貌で広く知られるようになった。現在八七歳。国家副主席を二期務めた後、二〇〇二年に公職を退いたが、オレンジ剤被害者と身体障碍者のための戦争関連ボランティア組織にはかかわりを続けている。

「正直に申しましょう」とマダム・ビンは言った。「ソンミ村は、米国人が報道して初めて、米国で重要視されるようになりました」。大虐殺後数週間経たないうちに、パリの北ベトナム報道官は事件を公式に指摘していたが、その話はプロパガンダとみなされた。「よく覚えていますよ。なぜなら、事件のために米国内の反戦運動が高まったからです」。マダム・ビンはフランス語で付け加えた。「でもベトナムではソンミ村は一つだけではありませんでした――たくさんのソンミ村があったのです」(つづく)

原文
The Scene of the Crime
A reporter’s journey to My Lai and the secrets of the past.
By Seymour M. Hersh
The New Yorker, March 30, 2015 Issue
http://www.newyorker.com/magazine/2015/03/30/the-scene-of-the-crime