TUP BULLETIN

速報1020号 シャヒ-ド、イーサー・バルハム / スージー…家族が犠牲となった後に、市民リヤードに残されたもの

投稿日 2021年7月13日
ガザ地区


◎パレスチナからの、とある二つの物語

本稿は、パレスチナの日刊紙"al-quds”(5月23日付け)と、”al-haya al-jadida” (6月14日付け)に掲載された二つの記事の邦訳である。一本目の記事は、ヨルダン川西岸地区、ナブルス市の南に位置するビータという町で起こった、占領軍と若者達の衝突の際に犠牲となった、イーサー・バルハムという男性の追悼記事である。この前書きでは、その背景から説明したい。

イスラエルと周辺のアラブ諸国のとの間で、大規模な戦いが四度起こった中東戦争、その三度目の第三次中東戦争(1967)以降、イスラエルは東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区とガザ地区を占領し、それ以来、両地域の入植地建設を積極的に進めてきた。(ガザ地区では、2005年に軍、全入植者を撤退させたが、その代わりに、一部の検問所を除き、コンクリート壁などで同地区を完全に封鎖し、物資や人の移動に極端な制限を課している) 2018年には、イスラエル国会は通称「ユダヤ人国家法」と呼ばれる基本法を可決した。内容は、イスラエルがユダヤ人民族国家であること、民族自決の権利をユダヤ人にだけ認めること、ヘブライ語のみが公用語であること、そして入植地建設は国家的に推進されることが記されている。つまり、イスラエル国内では法律によって、非ユダヤ人であるパレスチナ人を合法的にアパルトヘイト政策下に置くことしたのである。

最近では、東エルサレムのシャイフ・ジャラーフ地区で、地方裁判所が住民達に「立ち退き」を命じる決定を下した。住民達は、イスラエル政府が同意した正式な権利書を持っているにかかわらず、だ。 そもそも、占領した西岸及び東エルサレムから撤退しないこと、また東エルサレムに至っては撤退どころか併合を一方的に宣言すること、占領地に入植すること、これら全ての行為は国際法に違反している。しかしイスラエルは、これらを国際社会から非難されても無視し続けてきた。 そして、イスラエルは東エルサレムを併合した土地だと見なしているため、イスラエルの国内法を適用し、ユダヤ人に有利な判決を出してパレスチナ人を追い出す。つまり法システムも一体となって、強制的な追放、民族浄化を図っている。この強制追放問題は、4月半ばから始まった東エルサレムを中心としたパレスチナ人とユダヤ人の衝突の原因の一つとなり、やがてこの衝突が、5月10日から始まったガザ空爆へ繋がった。

今回この記事の舞台となったナブルスの町ビータも、入植地問題をめぐって今新たな抵抗の焦点となっている町である。5月の始め、入植者グループがサビィーフ山に、国際法に違反してキャラバン(仮設住宅のようなもの)を建設し、イスラエル軍の助けを借りてパレスチナ人の立ち入りを阻止した。それ以来この町の住民は、ビータの全土地面積の30パーセントを占めるサビィーフ山の入植に抗議している。町の人々は投石やタイヤを燃やすことで抵抗をしているが、イスラエル軍は実弾、ゴム弾、催涙弾などで応戦し、最近では、15才の少年が至近距離から撃たれて亡くなった。ビータでは、ここ二か月で本稿のイーサー含め4人が犠牲になった。負傷者は数百人に達している。

今回イーサーの記事を翻訳しようと思ったきっかけは、記事の中で取り上げられている、イーサーの書いた詩の美しさが目にとまったからである。美しく、そして力強い。母、子、母乳、椅子、彼ら、といった言葉を使って、祖国との繋がりや、良心、人間性を詠い、それと同時にパレスチナ自治政府(PA)、ファタハ政権を強く批判している。詩の中の"彼ら"とは、ファタハの大統領、及び高官達のことである。イスラエルと協力し、抵抗するパレスチナ人の逮捕や、海外からの支援金の着服、評議会選挙の無期限延期、言論の自由の弾圧。随分以前からファタハの腐敗は指摘されていた。最近では、先月パレスチナ自治政府を厳しく批判していた政治活動家のニザール・バナート氏が自治政府の治安部隊に逮捕され、その後「不自然に」亡くなった。そしてここで記しておきたいのは、同様なことがガザ地区でも起こっている、ということだ。度重なる戦争や、封鎖による経済崩壊、60%を超えるとも言われる失業率、市民は深刻な貧困に喘いでいるのに、人々は自由にハマース政権を批判出来ない。なぜなら、人前でハマースへの不満を口にすると、逮捕され、投獄される恐れがあるからだ。今回この記事では、西岸に焦点が当たっているが、"祖国への愛"を表現したイーサーの詩を通して、ガザ、西岸に住む全てのパレスチナ人が、イスラエルの占領と彼らの指導者層、双方から弾圧を受けていることを、私はこの詩を通して教えられた。そして、この詩をこの追悼記事に敢えて掲載し、本記事を書いた女性記者も、全てのジャーナリストや活動家も、この二つと闘っていることを伝えたかったのであろう。本記事の翻訳許可を得るにあたり、彼女は快く許可を下さり、「パレスチナに関心をもって下さって感謝します。私は日本の皆さんが好きです。いつも、皆さんと繋がっています」とコメントを頂いた。きっとこの現状が日本に伝わることを願っての言葉だと思う。

二本目の記事は、5月16日にガザのアル=ワフダ通りを襲った空爆で、奇跡的に助かった親子の記事である。 5月10日に始まったガザ地区への数々の攻撃の中で、致命的なものの一つであるといわれている。この夜だけで、43人のパレスチナ人が犠牲になった。このワフダ通りは、ガザ市内で最も人通りの多い賑わった、そして比較的裕福な人が住む、美しい通りであった。シファ病院への主要な道路でもあり、学校や銀行、研究所、商店などが並んでいた。この通りを深夜、事前の警告なしに複数のミサイルで民間の建物を攻撃したのは、明らかに犠牲者をだすことが目的であったと言えるだろう。爆撃により、道の殆どが破壊されたので、救急車はこの通りに入ることさえ出来なかった。 今回この記事に登場するリヤード・エシュコンタナー氏は後のインタビューで、彼が住んでいたこの地域は、医者や教育を受けた人々が住む安全な地域であること、何の軍事施設もないことを訴えている。そして終わりの方で、瞬く間に全てがひっくり返ってしまった、と語っている。彼のように家族の大半を失った人は、言わずもがな他にも数多くいる。そして、家族全員が亡くなったケースもある。ガザの保健省によると、少なくとも13の家族が5月10日からの爆撃を通して、市民台帳から抹消されたと述べている。日本では、このワフダ通りを襲った攻撃は、殆ど取り上げられなかったように思うが、wahda street masscare で調べると画像だけでも沢山見ることが出来る。メディアでは、パレスチナに関する報道は日々減っていくであろう。しかし、社会の人々に関心を持ち続けて頂くためにも、この二つの記事が、検索ワードの一つとなり、少しでも多くの人の"知る"きっかけになれば幸いである。

(前書き・翻訳: 後藤美香/TUP)

シャヒード、イーサー・バルハム….息を引き取るまで、自らの大地を守った法律家

ナブルスーalquds.comーシャウク・マンスール(筆者)ーイーサー・バルハム、ナブルス南部の町ビータ、その大地の子。学問と文化に明るく、人々から愛されていたこのハンサムな男性は、自分の町のほんの一片の土地であれ、それが占領されたり、ビータの人々が、その土地を奪われると考えることさえ耐え難かった。自らの声と石で、その大地を守るために家を出て、そして占領者の銃弾に斃れた。子ども達は、父と一緒によく遊んでいたゲームの続きをしようと家で待ちわびていたが、冷酷な占領者は理不尽にも子ども達から父親を奪ったのだった。[訳注:声と石、ここでは抵抗の精神の比喩的表現]

シャヒード、バルハムは42才、既婚で四人の子ども達の父である。モロッコで法律の学士号を取得した。その後、奨学金を得て刑法学を学び、成績優秀者の一人であった。それから七年間法務省で勤務し、その優秀さゆえに、二度目の奨学金を得て、刑事司法の博士号を取得した。その後、祖国に戻り、サルフィート県で検察官になった。 [訳注:シャヒード、殉難者。宗教だけではなく、祖国や社会などの危難のために犠牲となって亡くなった人のこと]

バルハムの命は、二発の銃弾で散った。彼は、彼の心である娘たちに呼びかけようとしたところで、最期の息を引き取った。そして、ここビータの大地は、彼の死を悼み、その大地を守るために殉じた、その体を抱きしめることを誇りに思う。

目撃者は、シャヒード、イーサーの最期の言葉を伝える。

「一緒に来るんじゃない…お願いだから山に戻ってくれ….ああ娘たちよ」

そして、彼は亡くなった。病院へ向かう途中だった。[訳注:この三つの台詞の最初の二つは、デモ隊の中でイーサーに付き添ってきた者達に向けられ、最後の三つ目で、彼は娘達に語りかけようとして、そこで亡くなったと思われる]

イーサーは、祖国に身を捧げることで、シャヒードとなった。彼は、祖国について頻繁に語っていた。Facebookの彼のページに、亡くなる前にこう投稿していた。

「賢者よ、彼らに伝えてくれ。その椅子は見せびらかすためのものではなく、それは、祖国が悲しんでいる時に、その身を捧げるためにあるのだ。 賢者よ彼らに伝えてくれ。良心と帰属は、母の乳から来る。(良心と、祖国との深い絆は、母親がわが子に母乳を与えるように、自然に受け継がれてゆく)、決して売られたり買われたりしない。 どうか彼らに伝えてくれ。祖国の人々が悲しみに暮れる時、そのために涙を流すのは高潔な人々をおいて他になきことを。賢者よ彼らに言え。人間性とは、心を持つ人にアラーが授けている宿命であり運命である….彼らに言え。仕事は報酬のためにあるのではなく、まさにこれから成長し、国を建てていく子ども達のためにあるのだと」

シャヒード、バルハムの兄弟のスルターンは語る。「イード・アル=フィトルの二日目に、私たちはイーサーの家に集まりました。彼の兄弟姉妹みんなが食卓についていました。そしてその時に、サビィーフ山で若者達と占領軍の間で激しい衝突と交戦がありました。占領軍は土塁によって、町の出入り口を塞ぎ、救急車の隊員は負傷者を搬送するために、山へ辿り着く事が出来ませんでした。」[訳注:イード・アル=フィトル、イスラムのヒジュラ暦9月の”ラマダーン”の終了を祝うお祭りのこと(ラマダーン終了から三日間)。イード・アル=アドハー(犠牲祭)と並ぶ、イスラムの二大祝祭の一つ。その日は「タクビール」、「タフリール」と呼ばれる祈りで始まる。新調した服を着て、親戚や友人宅を訪れたり、また集まったりする。そこでは宴が開かれ、お互いに贈り物をしたり、伝統的な豪華な料理やお菓子を楽しむ]

山沿いの地域でデモをしていた若者達は、村の人々へモスクの拡声器を通して、助けを求め始めた。車のある者は誰でもいいから、負傷者の搬送をするため山に来るよう頼んだのである。

そしてスルターンはさらに語る。「イーサーは助けを求めるその呼びかけを聞きました。そこで彼は車に乗り、衝突現場まで行きました。山を登り、負傷者を運び始めました。占領軍は彼に発砲し、弾は腹部に命中しました。それは出血を引き起こし、数分の後イーサーは他界し、シャヒードとなりました。」

スルターンは心痛の思いで話を続ける。「死に別れた悲しみは、とても苦しいです。言葉に出来ません。しかし私達は、味方になってくれたり支援してくれた人々の多さや、私達に届いた多くの連絡や便りから、殉難した者の尊さを知りました。状況は悪いです。殆どの町や村の出入り口は閉鎖されています。しかし、それにもかかわらず、葬儀には多くの人が参列してくれました。その人数、その光景は、力強く偉大なアラーの御もとで、シャヒードが授けられた栄誉を最も良く私達に示してくれました。イーサーは亡くなってしまいましたが、今や生きていた時よりも、多くの人に知られ、皆にとって大いなる存在となりました。」

スルターンはこう締めくくった。「イーサーは私達にシャヒードの勲章をもたらしました。そして又、この世とあの世の使命を果たしました。イーサーは、私達の心と彼が知る全ての人の心に、永遠の彼の席(居場所、思い出)を残しました。イーサーは敬虔で、よく学問を修め、そして高潔な魂を持った人でした。」

 

スージー…..家族が犠牲となった後に、市民リヤードに残されたもの

ガザーal-haya al-jadidaーハーニィ・アブー リズク(筆者)ーガザ地区に対する侵攻は終わり、山のような瓦礫が残された。しかし、停戦は次の戦争の始まりを意味する。そして日々物語がある。破壊された家の間に、またはその残骸にさえ。

5月16日    、正確には夜の1時、リヤード・エシュコンタナーは、テレビニュースを見ていた。それはカザ地区で、自分の周囲で何が起きているのか知るためだったが、度重なる戦争のなかでもそれは記録的であった。この日、リヤードの家族は(彼以外)全員とうに眠っていた…..そしてその眠りは永遠のものとなった。

そのたった数分後、リヤードは赤い炎を見て、立て続けに大きな爆発音を聞いた。まるで彼の頭上で起こっているかのようだった。テレビが床に落ち、とっさに妻と子ども達の安否を確かめに、駆けつけようとした。しかし、辿り着くことはなかった。複数のミサイルが、四階建ての建物に、その居住者達の頭上に撃ち込まれた。リヤードは急いだが、ミサイルに比べたたら彼の足は間に合うはずもなかった。

頭上で建物が崩れ落ち、リヤードは瓦礫の下に埋もれた。周りは、全てが石の山となり、そこらじゅうが血に染まった。この瞬間でさえ、彼は何が起こったのか分からなかった。

シャハーダを唱えながら一時間過ぎ、さらに二時間が過ぎたと思われたとき、ついに瓦礫の上から誰かが呼ぶ声が聞こえた「そこに誰かいるか?」、微かな声でリヤードは答えた「ああ、生きてる」その人物は、全ての人にリヤードの声を聞きとるために、周囲の者全員に静かにするように命じ、そして彼がいる辺りに近づいてきた。採掘道具を持ったレスキュー隊がやって来て、四時間かけて彼を穴から救助した。そして、この四時間の内、最後の一時間はリヤードが傷つかないよう手で掘り出した。

[訳注:シャハーダ、信仰を神と人に告白すること。 أشهد أن لا إله إلا الله، أشهد أن محمدا رسول الله「アッラーの他に神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒である」イスラム教の五行(信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼)の中の最重要部。イスラム教に入信する時や、普段の礼拝の始めの方に唱えたり、時にはもの忘れをした時に唱えることもある。また死に瀕する時や、危険な状態の時にムスリムであることを告白して、信仰を確認して強める]

レスキュー隊の男達は、後少しで瓦礫が全て撤去されるところまできた。ついに、リヤードが懐中電灯の光と(停電のため、レスキュー隊は懐中電灯を使用していた)、その周りでVサインをしている人々を見るやいなや、リヤード・エシュコンタナーの姿は、アラブ系や海外の報道機関やSNSで大々的に広まった。

〈その時の映像〉https://www.youtube.com/watch?v=QRe9ZGuumZw

エシュコンタナーは、自身の家族のみならず、ワフダ通りに住む多くの家族を襲った、その悲痛な日のことを、こう語る。「レスキュー隊の男性に私の声が届いたと分かった時、ここから出られるという新たな希望が湧きました。瓦礫から脱出した後、私はまだ家族の運命を知りませんでした。十二時間後、娘のスージーがレスキュー隊に救助され、やっとこの時知りました。家族の中で、スージーが唯一の生存者であり、妻と四人の子ども達が犠牲となったことを。」

そして瓦礫の下にいた時の詳細、リヤードが一番に考えていた事について語る。「私は瓦礫の下で意識がありました。そして、ただただ妻と子ども達のことが心配で、(まだ微かに聞こえる)彼らの声を集中して聞いていました。それからもう一つ集中していたのは、瓦礫の上から呼ぶ誰かの声、『そこに誰かいるか?』です。」

エシュコンタナーはスージーを抱きながらさらに語る。「賃貸で暮らしているようなこの家が、爆撃の標的になるなんて、本当に思いもよらなかった。重なる瓦礫から出てきて、破壊された家々を見た時、私は担架の上に横たわっていたのですが、私が住んでいる建物に隣接する多くの破壊された家々を見た時、その規模から、このエリアを地震が襲ったのだと思ったのです」

エシュコンタナーは、アル=ハヤー・アル=ジャディーダ紙の本記者に続けて語る。「家族の運命を知って、私は瓦礫となった家に向かいました。思い出になるものが残ってないか探すために、でも何も見つかりませんでした。家の中にあったものは全て消えてしまいました。妻も、子ども達の笑い声も、子ども達のおもちゃも、学校の鞄も、写真も、子供たちとの私の思い出も」

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原文1:

الشهيد عيسى برحم….رجل قانون دافع عن أرضه حتى الرمق الأخير بقلم شوق منصور، جريدة القدس، 23/5/2021

URI: https://alquds.com/2021/05/23/%d8%a7%d9%84%d8%b4%d9%87%d9%8a%d8%af-%d8%b9%d9%8a%d8%b3%d9%89-%d8%a8%d8%b1%d9%87%d9%85-%d8%a7%d9%84%d9%82%d8%a7%d9%86%d9%88%d9%86%d9%8a-%d8%a7%d9%84%d8%b0%d9%8a-%d8%af%d8%a7%d9%81%d8%b9-%d8%b9%d9%86/

原文2:

سوزي….ما تبقى للمواطن رياض بعد استشهاد عائلته بقلم هاني أبو رزق، الحياة الجديدة،  14/6/2021 

URI: http://www.alhaya.ps/ar_page.php?id=6a1826cy111247980Y6a1826c

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