TUP BULLETIN

[TUP速報]318号 「希望」とは、わたしたちのすべてである 04年6月1日

投稿日 2004年6月1日

FROM: minami hisashi
DATE: 2004年6月1日(火) 午前9時43分

1989年の自己責任――カレン・リッドの場合
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「希望」とは、わたしたちのすべてである

マーク・フェリエール牧師 2003年9月7日

この文章は、イエスが異邦のフェニキア地方を旅した際に起こった出来事に関連し、カナダ合同教会でなされた説教ですが、それに用いられたあるカナダ女性のエピソードは、今日の世界にとっての「希望」とは何かを雄弁に語るものだと思います。

なお、聖書のテキストは、新約聖書マルコによる福音書7章24節以下です。説教そのものについては、エピソードの後に要約の形で紹介しておきました。
翻訳・解説:岸本和世/TUP
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数年前、わたしはカレン・リッドという若い女性の勇気と信仰からきびしい問いかけを受けました。かのじょはカナダ合同教会の会員で、ウィニペグの小児病院において、小児患者のための治療助手として道化の役割で働いていたことがあります。カレンは、暴力で脅かされた人々を守る不偏不党の国際メンバー育成組織「国際平和旅団」で活動していましたが、エルサルバドルで起きた事件とのかかわりで、カナダの注目を受けることになったのです。

かのじょが活躍していた1989年から90年にかけてのエルサルバドルは、抑圧的な政府と民衆の衝突の場となっていました。カレンの活動は危険ではあったけれども、かのじょにとってとても有意義だったことを、いま思い起こします。それは、かのじょと危険を共にする人物が移動する車の下に爆発物が仕掛けられていないかを探すこと、家には真っ先に入ること、玄関での来客に応答すること、教会や組合あるいはそのほかのリーダーに同行して会合に参加することなどが含まれていました。それは日々危険に身をさらすことだったのです。

1989年11月中旬、カレンはカナダで国中のニュースとなりました。教会の集会に出ていたところを捕えられ、投獄されて手荒い扱いを受けたのです。目隠しされて、監視人たちから暴力を振るわれ、中央アメリカ出身の同僚たちが拷問を受けているのを耳にするという体験でした。カナダ各地からのたくさんの電話要請に押されて、カナダの外交官たちはカレンの釈放へと介入しました。牢獄を出たとき、コロンビア出身の同僚がまだ投獄されたままであることに気がついたかのじょは、その同僚の女性を残したままで牢獄を出るこを拒みました。それにより、カレンは独房に戻されてもおかしくなかったのですが、結局ふたりとも解放されたのです。

エル・サルバドル滞在の初めのころ、カレンはひとりの女性と徹夜で教会活動家たちが滞在する建物を監視していました。政府の民兵隊がしばしば真夜中に人々を襲って来て暴行を加え、拉致することがあるからでした。カレンは、その建物の前の人通りのない静かな道路を監視しながら、一緒にいたサルバドル女性と交わした会話のことを話してくれました。会話が、非常に困難かつ危険極まりない状況の中で、人々を戦い続けさせものは何かという点に及び、カレンが「なぜ、このような状況の中でもまだ希望を持ち続けられるのですか」と尋ねると、「あなたの国では、希望はある種のぜいたくなのでしょうが、ここでは、希望はわたしたちのすべてなので、わたしたちはそれを決して手放しません」と、その女性は語ったのです。

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【解説】

イエスの本来の活動の地はガリラヤ地方なのですが、同胞はかれの行動や言辞に対して敵対的な対応を示し、さらにはかれをユダヤ教の伝統に反する者として繰り返し攻撃を加えます。そのことに疲れを覚えたのか、イエスは異邦の地に旅に出ます。そこで、イエスはユダヤ人(イエスもユダヤ人)が接触することが許されていない異国の女性と出会います。かのじょは、悪霊につかれたために重い病にかかっている幼い娘を癒してほしいと願するのですが、イエスは謎めいた言葉を返します。「まず、子どもたちに十分なければならない。子どもたちのパンを取って、子犬にやってはいけない」と。この女性はそれを差別的な言葉として受け取るのではなく、むしろさらに大胆になって、「しかし、食卓の下の子犬も、子どものパン屑はいただきます」とイエスに迫ります。

説教者はこの会話から、地域的にも宗教的にも厚い壁が隔てている人物に対して示しているこの女性の熱意は、すべての生けるものに新しい生命をもたらすイエスへの信頼をあらわすものであると解釈しています。すなわち、この異邦の女性は最後に残されたものとしての希望をイエスに向けているというのです。

そこから、牧師は説教の中で、10年ほど前に勇気を持って危険な状況の中で戦ったカナダ女性と、かのじょをそのように動かすにいたったエル・サルバドルの女性との会話を紹介し、混乱と危機の中にある現代世界において「希望」とは何であるかを示そうとしています。

牧師は説教を終えるにあたって、エルサルバドルの女性と同じように、異郷フェニキアの女性にとっても、希望はかのじょが持っていたすべてであり、その希望は裏切られなかったこと。この聖書の奇跡物語は、(神が働かれる)真実こそがわたしたちと世界を変えると語っていると述べ、わたしたちがどのような状況に置かれるとしても、希望はわたしたちと世界を変えるものであり、わたしたちをそこに生きるよう招いている、と結んでいます。

【原文】
The United Church of Canada: Westmeath Pastoral Charge:
Rev. Mark Ferrier
Thirteenth Sunday after Pentecost, Year B September 7, 2003
Text: Mark 7:24-37
http://www.peterboro.net/~mferrier/Sept72003srm.html