TUP BULLETIN

速報444号 【論説】倫理なき経済学を逆手にとって 050116

投稿日 2005年1月16日

FROM: liangr
DATE: 2005年1月16日(日) 午後9時07分

戦争・災害は、世界経済に貢献するというのか? =======================

「倫理なき経済学を逆手にとって」

スマトラ沖地震の影響で生じた大災害の全貌が徐々に明らかになって来た年 末12月30日は、折りしもソンタグ逝去(ニューヨーク現地時間28日)の速報 が届いた翌日でもあった。

あるTUPメンバーが、早朝インターネットでNPRのラジオ番組「トーク・ オブ・ザ・ネーション」を、ねぼけ頭で聞いていて、そのあんまりな内容に、 びっくりして眼が覚めてしまった。ただちに、その内容をメモし、他のメン バーに披露してくれた。

NPRは米国の公共ラジオ放送で、基本的に視聴者からの寄付で運営されて いる。「トーク・オブ・ザ・ネーション」は、長年ホストを務める著名なジャ ーナリスト、二ール・コーナンが、毎日違った専門家をゲストに呼び、折々 の話題についてインタビュー形式でコメントを述べてもらっている番組だ。 わたしも滞米中に、自宅でも、車の運転中にも、英語の耳慣らしを兼ねて、 よく聞いていた。

26日の地震発生から三日が経ち、被害者の数と被災地の悲惨な様子がますま す明確になってきた日であった。だのに、その日のインタビューは、「津波 災害のコストについて」と題されており、おびただしい人的損害と生活圏へ の甚大な被害を見ているのは確かだとしながら、その実、長期的展望として、 この災害は、災害地域にとっても、またアジアへの投資家にとっても、非常 に好ましい影響を与えるだろう、という結論に至っているように、どうして も思えた。それゆえ、聞いていた当人は、たいそうショックを受けたのであ る。

その後、そのメンバーは、NPRがこの番組のトランスクリプト(筆記テク スト)を公開したのを取り寄せて、自分の印象が間違っていなかったことを 確認し、以下の追加情報と感想を、メールしてくれた。

「インターネットでナショナル・パブリック・ラジオ(NPR)を聞いていた ら、国際経済研究所(ワシントンD.C.、Institute for the International Economics)所長のフレッド・バーグステン(Fred Bergsten)が、

『香港、ジャカルタなどの経済センターだったらたいへんだった。人的被害 は大きかったかもしれないが、貧しい国の貧しい地域だったので、経済的に はたいしたことなかった。保険をかけている企業も少ないような地域なので、 保険会社も損をしない。これで、この貧しい地域にも復興の資本が呼び込ま れ、発展の契機となるだろう。究極の災害たる戦争を見よ。壊滅的打撃を受 けた日本やドイツは戦後すばらしい発展をとげたではないか。戦後一時期、 貧しい国は戦争して負け、マーシャル・プランのような援助をもらって復興 するのが、発展の近道だというジョークがあったくらいだ』

と、おそろしいことを言っていました。寝ぼけ頭で聞いていたのですが(朝 4時台だったので)、驚倒して目がさめました。何度も「人的被害は大きかっ たが」と言い訳していましたが。これが、大国、大資本の本音でしょうが、 隠そうとも繕おうともしなくなっているところがこわい。(参考:一説では、 復興には140億ドルかかるといわれている。保険会社の損失は、数億ドルから 2、30億ドルの間と見られ、2004年のフロリダの台風被害による損失200億ド ルに比べて格段に小さい。[保険の項、保険情報研究所(ニューヨーク、 Insurance Information Institute)のロバート・ハートウィグ(Robert Hartwig)談]

NPRの下記のサイトで聞けます。聞いてみて下さい。池田真里 http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=4250603 」 (引用終わり)

クリントン政権のブレーンであったバーグステンには、『ノー・モア・ジャ パンバッシング』No More Bashing: Building a New Japan-United States Economic Relationshipという日本の経済学者との共著がある。かれは経団連 の招きで来日したこともあり、日米関係ばかりではなく、韓米関係にも詳し いという点で、アジア通と言ってよい、気鋭の経済学者である。ボストン郊 外にある名門タフツ大学から1969年に経済学のPh.D.を得ている。民主党寄り ということもあり、現在のブッシュ政権とは一線を画す立場にあるのかもし れないが、震災数日後にして臆面もなく発せられた、この発言は、先進国の 経済界、つまり大企業・大資本の側の冷徹な論理を、じつは代弁しているの ではないか。

デイトレーディングが社会現象になっている米国のみならず、日本でも、多 くの人が、日常的な株式投資をするようになっている現在、今回の巨額の津 波被害援助関連で、かれらもまた虎視眈々と、どの企業の株が上がるか注目 し、経済アナリストのコメントを日々探っている。

バーグステンは、直接的にデイトレーディングや事業家の金儲けに役立つ発 言をしているわけではないが、明らかに倫理観を欠いている。なぜなら、戦 争や災害が必ずしも、経済にとって悪影響を与えるわけではないという視点 を呈示することが、あたかも啓蒙であるかのように語る一方で、それが、確 実に将来の戦争を肯定する論理につながるであろうことに留保を示していな いからである。

さらに、インタビュー相手が本来期待しているコストの議論が、他者である 死者を無視して、自己の利益=経済効果への期待になっている。このような 「希望」で生きているのが経済的人間=財界人・経済学者のリアリティなの だ、といまさらのようにわたしは気づく。デイトレーダーにとってのリアリ ティでもある。

それは、もはや人間のリアリティと呼ぶべきものではなく、古い言い回しで はあるが、関係性への自己疎外に等しい。いいかえると自己の利益を追求す る(多くの人にとって、そうすることが生きているということなのだが)と いう当たり前の生き方が、これでは最終的に自己の本来性の疎外に陥ること を意味するだろう。つまり、経済システムに過剰に適応する結果、自分が自 分自身でなくなってしまう。(なぜなら、ひとつのシステムは、絶対にそう でなくてはならない、唯一の全体性ではないのだから。)

そのような結果を見通すことなく、「短期的には」「長期的には」という経 済学のクリシェ(常套句)を適宜組み入れて見せて(遠くはケインズ、近く はクルーグマンに顕著なレトリックだ)、結局時間を先取りするように思わ せる。

いわば、古くはマルクス、近くは(『モモ』で)エンデが看破した、「時間 の植民地化」(これ自体はわたしのタームですが)である。このように一見 説得力がありそうに見えて、実はこれほど欺瞞に満ちた議論を展開する経済 学者は、何か自ら非常に重大な欠陥を、無意識に露呈しているのではないか。

この不用意とも思われる発言(バーグステンは、よもや被災地に近い、アジ アの一国の人間が英語放送をネットで聞いているとは想像もしていなかった に違いない)に、慈善家の仮面をかぶった、大資本の本音を見たり、という ことだけで終わらせてしまうわけには行かない、とわたしは感じた。

唯物論は、人間を経済のネットワークの中に解体・分散させるものではない。 むしろ諸関係の構造を見抜くことのできる、人間本来の精神のすばらしさを 示唆する議論であることは、たとえば『資本論』を読んでみればよくわかる。

人間は関係性の中で生きているが、関係の中に完全に還元することはできな い。そのような単純で素朴な洞察は、現在の高度に発展した経済学からは無 縁のようである。けれど、人間の倫理性は、今回情報を分け与えてくれたT UPメンバーがすぐれて持つような、単純で素朴な直観からしか生まれてこ ないものなのだ。

では、倫理を欠く経済学を逆手にとって、それを有効に利用しつつ、たとえ ば国連の理想主義を鍛えるには、いったいどうしたらよいか、と、答えは容 易には出ないものの、わたしはそう考える。

国連は20世紀の度重なる歴史的悲惨が産み落とした、21世紀の、ほとんど 唯一の希望であるからだ。この脆弱な希望の形式を、ひそかに、あるいは公 然と踏みにじり、欺き、当座の自己の利益のためにだけ利用しようとする連 中は、許されるべきではない。

その連中が、世界の富の90%を生み出しているというのであれば、かれらに 生み出されている富に依存しないで生きていけるシステムはないものか、と 考えるべきではないか。あるいは現行システムが別のシステムへと自己組織 化を遂げる方策を考え、提案していくべきなのではないか。経済学者こそ、 そのための知恵を絞り出すべく、誰よりも多くの時間とコストをかけなくて はならない立場にいるのではないか。

たとえば身近には、経済成長、経済効果、費用対効果、デフレ対策、自己責 任投資・保険といった世俗化された経済学の概念が、無防備な人間の存在を おびやかしている例が、あまりにも、多い。

老後の不安をあおり、もはや国の年金制度に頼らない形で、つまりアメリカ 型の資金運用、ひらたく言えば株式の売買によって老後の資金を得ることが 喧伝(けんでん)されるようになっている。しかし、資金運用を媒介する機 関の利益は、運用に成功するものからも、失敗するものからも等しく調達さ れているのだから、欺瞞があるのは少し考えるだけでも、明らかである。 (そもそも証券会社の株自体が株式市場に上場されているのは、いったい何 を意味しているのか、よく考えてほしい。)

失敗したものは、社会的ダーウィニズムの原理に従って、ただ悲惨な死を迎 えればよいのか。だが、それではフェアとは言えないし、人間はそのような 境遇をまともに受け入れることのできる存在ではない。やがて「勝ち組」に 対して、具体的な応酬が突きつけられることになるだろう。それが今後予想 される社会的リアリティである。この仮説は、新聞の社会面を眺めるだけで、 すでに証明され始めているのではないか。

いいかえれば、人はひとりでは生きていないが、社会もまたひとりひとりの 生身の人間からできているという当たり前のことを、抽象的な概念の操作と、 レトリックを駆使した説得力の行使によって、括弧の中に入れられてしまっ ては、たまったものではない、ということである。

その一方で、具体的な人間の存在を無視し、悲惨な災害をも、金を生み出す データに抽象化する動き、それに血眼になりかねない状況に対し、直観的な 胸騒ぎを覚えるだけの、ごく当たり前の平常心を保っていたい。

今年も去年と同じか、またはそれ以上に、多くの悲惨な出来事を見ることに なるだろう。出来事の本質的なあり方を無視し、自己の当面の利益のそろば ん勘定にすりかえて安心する、そのような偽りの希望からは、せめて脱却し ておきたいものである。

(2005.01.15) 和氣久明/TUP