TUP BULLETIN

速報519 原爆製造“企業城下町”を回想する(ビル・ウィザラップ)050707

投稿日 2005年7月6日

☆戦争を遂行し、枢軸諸国を打倒するために★
  1945年7月16日、ニューメキシコ州アラモゴルド砂漠、8月6日、広島、8月9日、長崎――マンハッタン計画の成果である人類史上初の原子爆弾3発が立て続けに爆発してから60回目の夏が巡ってきました。広島・長崎の犠牲者を追悼し、平和を誓うこの季節、祈りを込めたユニークなメッセージ――原爆製造現場、ハンフォード軍需工場のプルトニウム分離工程に従事した作業員を父に持つ詩人の筆による、核兵器開発の影で犠牲になった霊たちへのレクイエム――を紹介します。井上
凡例:  (原注)[訳注]

回想――史上初の核爆発、トリニティ実験60周年に寄せて

――ビル・ウィザラップ
ジャパン・フォーカス 2005年6月30日

2005年7月16日、ニューメキシコ州ホワイトサンズで実験されたプルトニウム原子爆弾の60周年記念日が巡ってくる。7月15日と16日には、それぞれニューメキシコ州サンタフェ、アルバカーキにて、アルバカーキを中心に活動する核兵器監視団体「ロスアラモス調査グループ」の主催により、詩の朗読会と募金入札オークションが開かれる。”Atomic Ghost: Poets Respond to the Nuclear Age”[『アトミック・ゴースト――詩人たちが核時代に反応する』](1995年刊)、”Learning to Glow: A Nuclear Reader”[『光を放つために学ぶ――核読本』](2000年刊)の編者であり詩の仲間、ジョン・ブラッドリー、そして私(筆者)が、この催しのゲストとして招かれた作家のうちの二人である。

私の父が、1944年にスタートした当初、コード名「ハンフォード工学技術研究(HEW)」と呼ばれた仕事に従事し、トリニティ原爆や、その双子の兄弟分であるファットマン、つまり1945年8月9日に長崎に投下された原爆の原材料プルトニウムの製造に関わっていたという事情があるので、ここで私は父が30年間にわたり勤務したハンフォードにおける経歴についてじっくり考えてみたい。私の父は、遠く離れたルイジアナやニューヨークといった他州からワシントン州南東部の溶岩地帯を流れるコロンビア川の土手の上に築かれた世界初のプルトニウム製造工場にやってきたハンフォード作業員たちの典型例のひとりだったので、私が書こうとしているのは、彼ら全般について、また米国政府直轄“企業城下町”の内部の目に見えない階級構造についてであるということになる。

その企業城下町は、元はホワイトブラフスやハンフォードそのものと同じくコロンビア台地に乗っかる農業の町だったリッチランドであり、時おり私はこれをエンリッチド・ランド[濃縮された土地]ともじっている。マンハッタン計画の軍側の顔、レスリー・グローブス大将が、農民たちや果樹栽培者たちの立ち退き――そして農家や公共施設の用地や農地の整地――を命じた。この土地は、戦争を遂行し、枢軸諸国を打倒するために必要とされたのだ。アルファルファ牧草地やリンゴ、サクランボ、ナシの果樹園は低額の補償金で収容された――米国が核兵器の種子を撒くために。

先住アメリカ人たちもやはり影響を免れなかった。コロンビア、ヤキマ、スネークの各河川は、水系野生生物の棲息域だったのは言うまでもないが、ヤカマ、ワナプム、ネズパース、カイユース、ワラワラ、その他の北西太平洋沿岸域諸族にとって、サケの漁場だった。ヤマカ族は、保留地がハンフォード核特別保留区と呼ばれるようになる区域の一部と重なったため、法的な権利をいくつか手放さなければならなかった。

マンハッタン計画沿革史、そして原子爆弾の開発・使用の歴史をひもとけば、ロバート・オッペンハイマー(マンハッタン計画の科学者側代表)、グローヴス大将、その他の核科学・軍複合体の司祭たち――物理学者、化学者、数学者――について読むことになる。その一方、作業員たち、すなわち巨大な戦時軍需工場(B核反応炉)とリッチランドの企業城下町との建設に従事した男たちと女たち、B核反応炉の竣功後、(もうひとつの企業城下町・テネシー州オークリッジからハンフォードに送られた)イエローケーキ[ウラン鉱粗製物]を転換したプルトニウムから円盤状プルトニウム塊を製造する現場で働いた人たちについて読むことは滅多にない。

ワシントン州リッチランドは、ピーボディ石炭社所有の炭鉱町のどれとも似たり寄ったりの“企業城下町”である。だがグローヴスは、石炭の町を見張るピンカートン探偵社のゴロツキの代わりに軍諜報部員たちを配して、核反応炉施設で働いたり、住民生活に関わる職業に就いたりする人たちのなかに、共産主義者や社会主義者、その他の反米分子が潜りこまないように監視させた。(私は、1990年刊の拙著 “Men at Work”[『作業現場の人たち』]に所収の「ウィザラップ母さんの最高機密チェリーパイ」のなかで、本土安全保障の先例について書いている) しかも、グローヴス大将は、施設作業員や、リッチランドで商売に携わる者は、すべて白人であらねばならないと目を光らせた。核反応炉施設の建造や、朝鮮戦争中に稼動しはじめた他の原子炉の建設に関連した工事に携わったアフリカ系アメリカ人たちは、川下のワシントン州パスコのたいがいは桁落ち水準の住宅をあてがわれていた。ハンフォードで働く人たちにヒスパニック[ラテンアメリカ系]や先住アメリカ人はいなかった――ちなみに、1953年度卒業の私の同窓生には、ヒスパニックだったり先住アメリカ人だったりした生徒は一人か二人しかいなかった。

ハンフォードの労働力が、若くて、たいがい白人だったのは、偶然ではない。グローヴスは、ハンフォードやオークリッジ、あるいはロスアラモス――マンハッタン計画核関連施設の総本山――の作業員が、ひとつの町から他の町へと移動するのを禁じていた。グローヴスの考えでは、これが計画の保安体制を確かなものにしていたのである。しかしながら、核聖職団のエリート、幹部科学者たちは機密取扱者認定証を持ち、核分裂や製造工程を調整したり研究したりするために、シカゴのメットラブからオークリッジやロスアラモスへと旅することができた。

私の父、メルヴィン・クライド・ウィザラップは、1944年の1月か2月にミズーリ州カンサスシティからハンフォードにやってきた。カンサスシティでは、彼はレミントン軍需工場の品質管理部にいて、型取り焼きなまし工程の検査をしていた。レミントンはデュポンの子会社であり、デュポンは米国史上でまさしく初めての核反応炉の建設と運営にあたる契約を獲得していた。父の職場では、「若い諸君、西部に向かえ」、高給のチャンスを掴め、と宣伝されていた。父は転身を決意し、残された家族、私の母、それに上から9歳、4歳、1歳の私、妹のサンドラ、メルヴィン・ジュニアは1944年6月に合流した。末っ子のコンスタンスは、1945年のリッチランド生れである。

父はデュポン社勤務の職務経歴がある点でも典型例だった。HEW[ハンフォード工学技術研究]に集められた作業員の多くは、全米各地のデュポン社事業所から来ていた。父は、カンサスシティで自動車事故に遭ったせいで肩の具合が悪く、徴兵検査は4F類[兵役不適格]だった――そのため戦争に行かず、いつもどこか後ろめたい思いをしていたが、他の作業員たちやその家族と同様、自分は重要な戦時軍需生産に従事しているのだという充足感で補っていた。リトルボーイが広島に、ファットマンが長崎に現実に投下されるまで、自分たちがハンフォードで何を製造しているか知っている作業員はほとんどいなかった。その後、冷戦の全期間を経て今日にいたるまで、作業員やたいがいの家族は、原子爆弾は太平洋戦争の勝利に役立ったのであり、民間住民たちに対する原爆使用は正当化されると信じてきた。

グローヴス大将は、テーブルのひび割れが補修され、きれいに塗装されているように気配り怠りなかった。ワシントン、オレゴン、アイダホ各州の新聞が、HEWで何が起こっているか、詮索し、報道することがないように目を光らせていたのである。会社による宣伝の他には、いっさい世間に漏れるようなことはなかった。学校の教壇からも、教会の説教壇からも、ハンフォード批判は絶えて聞こえなかった。いるのは白人ばかり、すなわちヨーロッパ系アメリカ人だけだったので、階級の違いや人種差を意識することもなかった。ただし、たいがいが黒人(!)のパスコ・ブルドックスを相手に、私たちのスポーツチームが試合をするときは別だったが。

物理学者、医師、科学者、技術者、作業員の子どもたちは、ほとんど同じ服装で学校に通っていた。シャツ、スラックス、シューズはシアトルのモントゴメリー・ウォードやシアーズ・ローバックから取り寄せていた。高給取りの科学者たちは一戸建てに住み、その他大勢の私たちはプレハブや二戸建てに住むという違いはあったが、官舎であることを示す灰色と茶色の看板が同じだったので、それが階級差別を消し去っていた。仕事について――政府機密だったので――科学者も作業員も家族に話さなかった。そんなことをしようものなら、次の列車か引越しトラックに家族もろとも乗る羽目になった。

後に父が語ってくれたのだが――父の最初の仕事はB核反応炉で使う黒鉛ブロックを記録することだった。次に、彼は計時係をしばらく務め、その後、ウラン核分裂反応後のスラリー[懸濁液]からプルトニウムを分離する工程の操作技術員の訓練を受けた。分離工程は、2区画を貫く「クイーン・メリー」と呼ばれる巨大な装置を用いるものであり、処理過程全体のなかでも有毒性の高い部類の作業現場のひとつだった。それに、たいがいの作業員は、デイズ[日勤]、スイング[午後勤]、グレイブヤード[夜勤]と呼ばれる3直〈ちょく〉の交替勤務を強いられた。このような交替勤務が睡眠リズムを狂わし、有害作業環境ともあいまって、癌や免疫系不調疾患に対する抵抗力を弱めたのか
もしれない。

トリニティ実験2日前の1944年7月14日、父は35歳の誕生日を迎えた。彼や他の作業員たちは、ソフトボール大の塊に仕上げたトリニティ原爆プルトニウムの製造に従事したのだが、トリニティ実験のことを知ってさえいなかったのでは、と私は思う。銃撃爆縮タイプのウラン爆弾・リトルボーイが最初に使われ、したがって広島が原子力時代のシンボルになったが、核時代を開き、長崎以後、それに続く核弾頭の原型になったのは、プルトニウムを爆薬レンズで包んだ内向爆縮装置・トリニティ実験爆弾だった。
[原文サイトにはトリニティ実験現場の映像]

父は、前立腺癌――ハンフォードにおける30年間の労働に起因する疾患――を患い、1988年に死去するまで、自分の仕事は愛国的であり有意義なものという信念に固執していた。彼は、ハンフォードは安全な職場の歴史を刻んでいたとか、デュポン、ゼネラル・エレクトリックス、ユナイテド・ニュークリアなどなど、さまざまな受託企業は従業員の健康に気遣っていたとか、いつも言い張っていた。その一方、作業員、家族、ハンフォードの風下の農民、サケを捕食する先住アメリカ人たちはありとあらゆる種類の癌で死につづけていた。リッチランドの高等学校は、私が1953年に卒業したのち、2校に分裂したが、そのうち古くて大きい方のリッチランド高校は、今でもスポーツチームの名をリッチランド・ボマーズ[爆撃手]と呼んでいて、緑と金色文字のセーターには原子爆弾のロゴが入り、体育館の床中央に書きこまれたマークにある“R”の字からキノコ曇が大きく湧きあがっている。
[暗闇に輝くキノコ曇の映像]

1994年の春、父が死んでから6年後、私は、”Washington Physicians for Social Responsibility” [社会的責任を求めるワシントン州の物理学者たち]のメンバーたち、それにロシアのチェリャビンスクから来訪した教育者や科学者たちと連れだって、ハンフォードの現地を見てまわった。チェリャビンスクの核施設は、その外観から見ても、冷戦がらみの任務から言っても、ハンフォードに非常によく似ていた。バスがB核反応炉のそばを通過するとき、私は女性ジャーナリスト兼教育者と並んで座っていた――二人で言い交わした言葉は何だったか、正確なことは忘れてしまった(私のロシア語は錆ついて久しい)――が、私は「グレイブヤード[墓地]」という言葉を口にし、その瞬間、唐突にまたもや、その語が、私の父の死を想起させただけではなく、長崎の数多くの霊たちのすべて、ハンフォード作業員の霊たち、かつては美しかったコロンビア台地、今でも大地と川とは圧倒的であり、交響曲を奏でているが、地球上で最悪の汚染地に数えられるまでになった土地のサケ、ライチョウ、コヨーテ、ガチョウ、ガラガラヘビの霊たちを蘇らせ私を打った。

[筆者]ビル・ウィザラップ(Bill Witherup)は、シアトル在住の詩人であり、労働、核問題、監獄について書く。最新著作は “Down Wind, Down River: New and Selected Poems” (West End Press, 2000)[『風下、川下――新作詩選集』(ウエストエンド出版、2000年刊)]。 本稿原文はジャパン・フォーカス編集者による抄録であり、完全版はポリティカル・アフェアーズ誌2005年7月号に掲載の予定。


[原文]Reflection on the Sixtieth Anniversary of the Trinity Test
By Bill Witherup
Posted at Japan Focus on June 30, 2005.
http://japanfocus.org/article.asp?id=316
[編注: 現文サイトのURIは以下に変更された: http://japanfocus.org/-Bill-Witherup/2083/article.html]
Copyright 2005 Bill Witherup TUP配信許諾済み


[翻訳]井上利男 /TUP

[訳者による附録]7月16日から8月9日まで25日間をかけて、サンフランシスコからニューメキシコ州アラモゴルド砂漠トリニティ実験サイトまでの1600マイルを歩く平和行進が、”Full Circle” – The Epic Return to Trinity …[平和を求める60年間の旅路の『完全な一巡』――トリニティへの叙事詩的な帰還]というコンセプトでおこなわれるそうです――
http://www.gndfund.org/