TUP BULLETIN

速報528号 R・コンスタンティノ「広島の記憶」 050816

投稿日 2005年8月16日

☆広島からイラクへ受け継がれる米軍の大量破壊戦略★
本稿の筆者による論考のひとつに、米国による彼の国・フィリピンの占領の歴史を描いたTUP速報268号「歴史の痛ましい傷」(2004年3月5日)
https://www.tup-bulletin.org/?p=291
があり、その記事では、武力を誇り、版図拡大を追求する米国の傲慢な帝国主義的性格を描きました。最近、彼は広島を訪問して、原爆投下がもたらした惨状を見つめましたが、その眼は、被爆者一人ひとりの悲劇とともに、その後の冷戦時代の核軍拡競争を経て、現在の「テロに対する世界規模の戦争」や「使いうる核兵器」の開発計画に受け継がれる大量破壊戦略の思想そのものに注がれています。井上
凡例:  (原注)(数字=脚注)[訳注]〈ルビ〉《リンク》

広島の記憶: 忘却に抗〈あらが〉う闘い

――レナト・レデントール・コンスタンティノ
マニラ・タイムス 2005年8月6日

広島――日はたそがれ、川面も暗くなったが、空は明るく澄んだまま。(1)

時おり自転車が無人のベンチのかたわらを元気よく通りすぎ、通行人たちは穏やかに流れる元安川の堤防沿いに歩いていた。数メートル先の鉄橋を重量のある路面電車が音たてて渡り、原爆ドームの部屋のない窓と窓のない部屋の前を通り過ぎる。原爆ドーム。かつてあったものとありえたものの骨格の残影。

カメラの男はすでに3回もドームの周囲を廻り、膝を折ったり、体をねじったり、しゃがんだりして、写真を撮りまくっているが、アングルがピッタリ決まった様子はまだない。正しいアングルがあるものか、誰が知る?

原爆ドームはかつての広島県産業奨励館の残骸である。1945年8月6日の朝8時15分、建物の上空600メートルで大量殺戮兵器が炸裂し、爆心から 2キロメートル以内のほとんどの建物を焼きつくし、最終的に20万の人命を奪った。ちなみに原爆投下時の広島の人口は、おおむね35万。

原爆ドームのかたわらに、1967年8月6日、建立された記念碑に刻まれた祈りの言葉――「この悲痛な事実を後世に伝え人類の戒めとするため……これを永久に保存する」

あるいは永久でさえ、記念として短すぎる。

軍が開発していた恐怖の爆弾について「私は(ルーズベルト大統領に)申しあげた」と、ヘンリー・スチムソン国防長官は1945年6月6日付けの日記に記す。「私は、2つの理由により、この特殊兵器に危惧を抱いていた。第1、米国が残虐性においてヒットラーを凌ぐという評判をこうむって欲しくなかった。第2、われわれの準備が整う前に、(米)空軍があまりにも徹底的に日本を空爆で破壊しつくし、新型爆弾が威力を発揮する正当な状況がなくなってしまうといささか恐れていた。大統領は笑って、よく分かったと言った」(2)
名は体を表す名称の米国標的選定委員会の文書によれば、「原爆投下の効果を正確に観察できるようにする」ために――選抜リストに掲載される都市に対しては、以後の米空軍による空爆が禁止されることになった。(3)

いずれにしろ、米国には原爆を投下するしか方策がなかった。原爆の影響は凄まじかったが、[原爆を投下しなかったとすれば]戦争は続いていただろうし、もっと多くの人命が失われていただろう。作り話では、そのとおり。

残虐行為がなされてから、ドワイト・アイゼンハワーという名の米軍将校が「日本はすでに敗北していた」と述懐した。「原爆投下はまったく不必要だった」(4) どう見ても、そのとおり。

すでに1945年6月中旬、日本の最高軍事統帥会議[大本営]の首脳たち6人は、日本との交戦状態になかったソ連に「できるなら9月末までに」戦争を終結するための調停を求め、東郷外務大臣が同国に接触する権限を与えていた。

何週間か後の7月13日――ドイツが降伏してから2か月後、ハリー・トルーマン、ウィンストン・チャーチル、ヨシフ・スターリンが戦争終結に備えてポツダムで首脳会談をおこなう4日前――東郷は、佐藤モスクワ駐在大使に向けて、日本の条件付き降伏を画策するように打電した。「無条件降伏[の要求]が、講和を阻害する唯一の障害になっている。速やかな戦争終結を目にすることが、陛下の大御心〈おおみこころ〉であらせられる」(5)

だが他の関係者たちは別の心情を抱いていた。

1945年7月18日、トルーマンは、マンハッタン計画の成果――世界初の――原爆実験が7月16日に挙行されたニューメキシコからの燃えるような報告の意味するものを汲み取ったのだろうが、日記に次のように記した。「(私は)ロシアが参戦する前にジャップたちは潰れると信じる。マンハッタン計画が彼らの本国に本性を露わにすれば、彼らはそうなると確信する」(6) だから、爆弾は落とされた――そして、爆弾には誰にも予想できなかったほどのでっかい見返りがあった。

1945年6月――日本の最高軍事統帥会議が降伏の可能性を探るように発令したのと同じ月――の11日、ジェームス・フランクなど、アメリカ人科学者たちは、まだ起こっていないことを忘れないでいた。(7) フランクたちは連名で米国標的選定委員会にあてて次のような秘密討議資料を書き送った――原爆は「2、3年を超えて(米国が)独占的に管理する『秘密兵器』のままにしてはおけない……米国が人類の頭上にこの無差別殺傷手段を発射する一番手になれば、全世界の支持を犠牲にすることになり、軍拡競争を勃発させ、将来におけるかかる兵器の管理に関する国際条約の成立の可能性を損なうだろう」(8)

米海軍提督ウィリアム・リーヒは、1950年の回顧録に「私の見解では、広島、長崎におけるこの野蛮な兵器の使用は、わが国の対日戦争の遂行において具体的な役に立ったのではない」と書いた。ルーズベルト、トルーマン両大統領に仕えた参謀長リーヒはこう述懐する――「これを最初に使用したために、わが国は暗黒時代の野蛮人たちに通底する倫理基準を採りいれることになった。私はそのような流儀で戦争をするようには教育されていないし、女や子どもを殺傷して、戦争に勝ったとは言えない」

鉄谷伸一〈てつたにしんいち〉は小さな三輪車を持っていたが、それは持ち主と同じようにひどく焼け焦げてしまった。爆弾が襲ったとき、男の子はもうすぐ4歳になろうとしていた。伸一ちゃんの父親は、幼い子どもを一人、家から離れた人気のないお墓に入れれば、さびしがるだろうと思った。彼は、「死んでからも遊べるようにと」伸一ちゃんをその三輪車と一緒に庭に埋めた。1985年[被爆40年目]になって、遺骸は父の手で掘り出され、家族の墓に改葬された。三輪車は広島平和記念資料館に寄贈された。(10)

広島の母親、升川貴志栄〈ますかわきしえ〉は、爆弾が破裂したとき47歳だった。「貴志栄さんは大けがを負い、迫り来る火の中、もう逃げられないと覚悟しましたが、そこへ飛ばされてきた松葉杖にすがって、どうにか山根町の自宅へ帰ることができた。貴志栄さんの長男で、県立広島第一中学校1年生だった宗利〈むねとし〉さん(当時12歳)は、雑魚場町の学校で被爆、現在も行方不明のまま。貴志栄さんは、この松葉杖を宗利さんがくれて、それで自分が助かったような気がして、戦後もずっと大切に保管していた」(11)

「1枚目のシャッターを切るまでに30分はためらいました」(12)と、原爆投下の当日、犠牲者たちの写真を――やっとのことで2枚だけ――撮影した唯一の人物である写真家、松重美人〈よしと〉は語った。「一枚シャッターを切ると、不思議に心が落ち着き、近づいて撮ろうと思うようになりました。10歩ほど近づき、ファインダーをのぞいてみるとあまりにもむごく、涙でファインダーが曇りました」

トルーマンは、広島大虐殺の直後、米国の手に原爆を授けた摂理に感謝し、「あなたの御心とご計画に従ってそれを用いるように、私たちを導きたまえ」と熱烈な祈りを捧げた。何日かあと、2つ目の祝福された原爆が長崎に投下され、日本のカトリック信者人口の4分の1を殺戮〈さつりく〉した。(13)

「私は空軍兵であり、操縦士なのだ。1945年の私は米国の軍服を着用し、わが国の最高司令官の命令に従っていた」と、広島原爆を投下した爆撃機、エノラ・ゲイを飛ばした米軍パイロット、ポール・ティベッツは言った。アウシュビッツ司令官、ルドルフ・ヘスは、ニュルンベルグ裁判における反道徳的な証言に、「われわれナチス親衛隊の人間はこれらのことについて考えるとされていませんでした」と言う。「われわれ全員は考えることなく命令に服従するように訓練されていましたので、命令に背く考えは誰にも浮かぶはずがありませんでした」(14)

魅力的な映画『ビフォア・サンセット』[*]でジュリー・デルビーがイーサン・ホークに言った科白〈せりふ〉――「過去にこだわらずに済めば、記憶は素晴らしいものだわ」
[リチャード・リンクレイター監督、2004年アメリカ映画。1995年ベルリン映画祭銀熊賞の恋愛映画『恋人までの距離(ディスタンス)』の続編]

アメリカが朝鮮と戦争していたとき、「原爆を50発ばかり中国の都市に投下すべきだ」とダグラス・マッカーサー司令官が脅し文句を吐いた。(15)

ブレット・デーキンが――歴史上で最も大量の爆弾を落とされた国――ラオスで暮らした経験を綴った著書に「私は記憶していたいが、時にはそれが難しい」と書いた。ベトナム戦争中、米国が投下した爆弾は、ラオス一国だけで第二次世界大戦中に米軍が用いた爆発物の総量を上回る。(16)

「マーシャル列島で炸裂させられた」米国の核爆弾67発のすべてが「今日にいたるまで私たちを悩ましている核の遺産に寄与している」と、2005年5月11日、国連における第7回核兵器拡散防止条約再検討会議でロレラップラップ基金のトニー・ド・ブルムが発言した。

ド・ブルムは「悩ましている」というのは穏便な言葉だと知っている。1946年から58年にかけて、米国がマーシャル諸島で実験した核兵器のメガトン数を総計し、実験期間を通して均してみると、広島原爆の1.6倍の威力の核兵器が、「12年間毎日」マーシャル諸島に落とされていたことになる。(17)

戦略としての広島: 「衝撃と畏怖」作戦の立案者、ハーラン・ウルマンは次のように言った。「米国はイラクを物質的・情緒的・心理的に粉砕する意向であり……何日とか何週間とかではなく――むしろ広島を襲った核兵器にも似て――数分間のうちにこの同時進行的な効果を得ることができる」(18)

2005年に見られた3本の記事見出し: 「米国、核計画に関し北朝鮮に警告」「米国、イランの核計画にノー」「米国、数十億ドル規模の最先端バンカーバスター核兵器計画を予告」

「10年以内に米国内の標的に対する核攻撃がある確率は50パーセントを超える」と米国防衛機関の元担当官たちは警告した。(19)

誰か、聴く耳ありますか?

米国とロシアの核兵器を合わせると、世界の核兵器保有量の96パーセントに達する。両国とも、一触即発警戒態勢のもと、すぐにでも発射できる核弾頭を何千発も配備している。だが、元米国防長官ロバート・マクナマラによれば、両国の早期警戒システムは、野火や衛星打ち上げ、雲とか海面での太陽光の反射に誘発され、毎日のように警報を受信していることを知る者はほとんどいない。それに不気味なことに、ハッカーやテロリストに対しては、何の安全保障策もないとマクナマラは付け加える。(20)

「どうして(だれかが)公然たる形でわが国に敵対して動き、われわれに空軍力や海軍力の行使に踏み切らせる切っ掛けを作るのか、これは私の理解を超えている……われわれは地球上のだれよりも強力な軍事力を1平方インチごとに浴びせることができ、だれもがそれを知っている……わが国の核軍事力を直視するなら、米国に軍事力で匹敵する勢力は存在しないことは、だれの眼にも明らかなはずだ」と、2004年12月、米軍将校ジョン・アビザイドは見栄を切った。(21)

人類史上で最も恐ろしい行為のひとつに思いを馳せる60周年記念のとき、狂気が雑草のようにはびこり、記憶は、根付く前に枯れ死が危惧される希少植物のようにしおれている。

脚注:

(1)筆者による今年の――原爆投下から数えて2万1746日目、核実験が最後に挙行されてから268日目を初日とする――広島訪問にもとづく連載記事より。
(2)フィリップ・ノービル「トルーマン裁判――検察側冒頭陳述」歴史ニュース・ネットワーク、2001年8月3日: http://hnn.us/articles/172.html
(3)2005年、広島平和記念資料館に展示された米国の機密解除文書より。
(4)ハワード・ジン「8月の爆弾」プログレッシブ・サイト、2000年8月: http://www.progressive.org/zinn0800.htm
(5)同上。
(6)同上2。
(7)エドアルド・ガレアーノ「 Memory of Fire [火の記憶]」三部作の第1巻 “Genesis”[『起源』]にある「いまだ起こらぬことを記憶した」という一文を借用。
(8)広島平和記念資料館に展示の機密解除文書。
(9)「大量破壊兵器、広島と長崎、原爆実験博物館」ジャパン・フォーカス、2005年4月7日: http://japanfocus.org/article.asp?id=265
(10)広島平和記念資料館の展示品説明文より。
(11)同上。
(12)財団法人・広島平和文化センター2003年刊『被爆証言集――原爆被爆者は訴える』第3版、松重美人「生き地獄でシャッターが切れず……」参照のこと。松重は、爆心地から2.3キロメートル地点の御幸橋〈みゆきばし〉で被爆者を撮影したが、じっさいには感情が昂ぶって避難するまでに2枚撮れただけだった。3枚目と4枚目の写真は本人の自宅のものであり、5枚目――皆実町〈みなみまち〉で被災証明を発行する警察官の写真――は運命の日の夕刻に撮られた。同じ文節の引用部分は、広島平和記念資料館に永久展示されている松重撮影の悲惨な写真のキャプションより。
(13)同上2。
(14)同上。
(15)ニアル・ファーガソン “Colossus: The Rise and Fall of theAmerican Empire”[『コロッサス〔エーゲ海ローデス島の巨像〕――アメリカ帝国の興亡』]ペンギン・ブックス、2005年。
(16)ブレット・ダーキン(Brett Dakin)”Another Quiet American: Stories of Life in Laos”[『もうひとりの静かなアメリカ人――ラオス暮らしの物語』]アジア・ブックス、2003年。
(17)トニー・ド・ブラム「ブラヴォー実験と現在――米軍核実験とマーシャル諸島」ジャパン・フォーカス、2005年5月19日。
(18)アンドリュー・ウェスト「緒戦24時間にミサイル800発でイラク攻撃」サン・ヘラルド・オーストラリア、2003年1月26日―― http://www.smh.com.au/articles/2003/01/25/1042911596206.html
(19)ノーム・チョムスキー「ヒロシマ再訪」2005年8月2日 www.informationclearinghouse.info
(20)ロバ-ト・マクナマラ、ヘレン・カルディコット「核の脅威は今も」 ツデー紙、2004年4月29日。
(21)「トムグラム: ディリップ・ヒロ、イラン原爆の地政学を語る」トム・ディスパッチ、2004年12月2日―― www.tomdispatch.com


[筆者]レナト・レデントール・コンスタンティノ(Renato Redentor Constantino)はフィリピンの作家・画家。妻カラヤーン・プリド、子ども二人、リオ・レナト(男7歳)、ユラ・ルナ(女3歳)と一緒にケソン市に住む。これまでグリーンピース中国の気候・エネルギー・キャンペーンを主導し、今は東南アジアのグリーンピースに関わる。
作品掲載サイト: www.redconstantino.blogspot.com


[原文]HIROSHIMA MEMORIES: THE STRUGGLE AGAINST FORGETING
Renato Redentor Constantino
The Manila Times, August 6, 2005
http://xioy.blogspot.com/2005_08_01_xioy_archive.html#112325109941428750
Copyright 2005 Renato Redentor Constantino TUP配信許諾済み


[翻訳]井上利男 /TUP
謝辞に代えて――本文および脚注(12)にある、広島平和記念資料館の展示品キャプションなどからの引用は同資料館・学芸担当提供の資料によりました。