TUP BULLETIN

速報584号 巻き添え被害と白燐〈リン〉砲弾 060215

投稿日 2006年2月15日

FROM: hagitani ryo
DATE: 2006年2月15日(水) 午前11時27分

☆イラクでよみがえるベトナム戦争の悪夢★
「この戦争は泥沼化するだろう」――これは、イラクに対する侵略戦争の開
始時から言われていたことです。ブッシュ政権の戦争推進勢力が、イラク正
式政府の発足の見通しなどにもとづき、民主化や安定化を喧伝していても、
イラク国内では、抵抗勢力による武力闘争は鈍化の兆しさえ見せず、周辺で
は、パレスチナの選挙における対イスラエル武闘派ハマスの勝利、イランに
おける反欧米強硬派大統領・アハマディネジャドの登場など、事態は米政権
の目論見に対する逆風が吹くばかりのようです。本稿では、二人のベトナム
戦争退役者が、みずからの体験を踏まえて、民間人の「付随的(巻き添え)
被害」や米軍による「白燐〈リン〉砲弾」の使用などを材料に、泥沼化する
イラク戦争に対する思いを語ります。井上

凡例: (原注)[訳注]《リンク》〈ルビ〉
____________________________
ベトナム戦争退役者たち、イラクにおける民間人の犠牲を語る
トム・ディスパッチ 2006年1月22日

[まえがき――トム・エンゲルハート]

ベトナムは、米国にとって、終わることのない戦争だった。歴代の政権は、
成功の見込みなど著しく欠いたまま、ベトナムを記憶から拭い去ってしまお
う、あるいはせめて治癒可能な病態(「ベトナム症候群」)に転じてしまお
うとあれこれやっていた。あの戦争のあと、制度疲労をきたした国民徴兵制
の軍隊は、いわゆる脱ベトナム戦争期政策にもとづき、全志願制の戦力に再
編され、戦争そのものは、ロナルド・レーガン大統領によって「高潔な大
義」として見直されたし、「文化戦争」のお題目のもと、1960年代の
(とりわけ反戦抗議運動に関連する)思潮や行動のあらゆる側面に対する攻
撃が右翼によって放たれたり、わが国の指導者たちが、「出口戦略」なしに
は二度と海外における戦争に巻きこまれるようなことをしないと誓ったうえ
で、アメリカ国民はあの恐ろしい時代に身につけた悪弊――とりわけ長期に
わたる対外紛争や干渉におけるアメリカ人の流血に対する無意味な抗議――
を断ち切らなければならないと決め付けたりし、おまけに、通説ではすべて
の戦闘において「勝利」していたのに、米国内戦線で負け戦をこうむったせ
いで、ベトナムでの大失敗に見舞われたのであり、その主犯はメディアであ
ると右側の多くが考え、こういう類の報道を規制するために、マスコミ業界
は再編される(それに、最終的には軍部に「埋め込み」される)ことになっ
た。現職大統領の父親は、彼の湾岸戦争のあと、「われわれは、神かけて、
これを限りにベトナム症候群を断ち切った」と豪語した《*》。それでも、
ベトナムは悲劇的な体験としてアメリカ国民の意識に深く沈潜し、頑なに忘
却を拒んでいた。
http://www.foreignaffairs.org/19911201faessay6116/george-c-herring/america-and-vietnam-the-unending-war.html

だから驚くこともないが、サダム・フセインのイラクを侵略するとなると、
ブッシュ政権の思惑と計画にはベトナム戦争との対比(またはその恐怖)が
最初から密接に絡みあっていた。そういうことで、例えば、米兵戦死者の遺
体を搬送するにしても、真夜中の丑三つ時――報道陣の立会いも儀式もな
く、到着の事実も伏せた《1》まま――オハイオ州デラウェアのドーヴァー
空軍基地《2》に迎えるための綿密な作戦。これら見るに耐えない(一律に
「運搬チューブ《3》」と名を改められた)「遺体袋」のどれひとつとし
て、ベトナム戦争時代のように白日のもとに帰還し、全国ニュースに登場す
るようなことはなかった。これは、あの戦争における本国内戦線で支持喪失
の一助になったと信じられたため、避けるべきであるとされた諸要因のひと
つだった。同じように、ベトナム戦争期、評判の悪かった「死者数統計」
《4》もやはり支持率の落ち込みにつながったと信じられ、この新たな戦争
の敵側戦死者は計算されないことになった。ブッシュの高官たちと彼らのネ
オコン同盟者たちが新たな第二次世界大戦(または少なくとも新たな冷戦)
を戦うのに死にもの狂いになればなるほど、ブッシュ政権の計画は、ベトナ
ムの記憶の消滅が可能にする逆行的な目論見の類であることを曝〈さら〉け
出した。イラクを占領するにあたって、わが国は1945年にドイツや日本
の民主主義を手渡した経験(ブッシュ政権当局者たちがまったく嫌になるほ
ど売りこんだ対比)を再現するだけであり、死や破壊、熾烈なゲリラ戦、最
終的にはベトナム流儀のわが国じたいの敗北を招くということは――絶対に
――ありえないとされていた。
1 http://www.gwu.edu/~nsarchiv/NSAEBB/NSAEBB152/index.htm
2 http://www.thememoryhole.org/war/coffin_photos/dover/
3 http://www.csmonitor.com/2003/1106/dailyUpdate.html
4 http://www.truthout.org/cgi-bin/artman/exec/view.cgi/38/11805

だから、イラクに対する侵略の実質的に最初の段階で、ベトナム戦争の先例
が即座に意識にフラッシュ・バックしていたとしても、誰もビックリすべき
ではない。あのかつての戦争で用いられた文言そのもの――人心掌握、索敵
掃討、信頼性欠如、敵味方の識別困難、軍事に対する民間人の干渉――が、
ほぼ瞬時に、軍人、政府当局者、兵士、評論家、誰彼かまわず皆の口の端に
でた。マリリン・ヤングは、あの先行する時代の必須歴史書、”Vietnam
Wars, 1945-1990″《1》[『ベトナム戦史:1945年〜1990年』]
を著した人だが、イラクに対する侵略が始まってもいなかった2003年2
月《2》に早くも、こうしたこと全体の奇妙さを捉えていた――そしてさら
に、じっさいの侵略が露骨に実行されると、イラク戦争を「クラック・コカ
インを盛られたベトナム」《3》と断定したが、これは今日にいたってもき
わめて正確な評言である。
1 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0060921072
2 http://www.tomdispatch.com/index.mhtml?pid=354
3 http://www.oah.org/meetings/2003/roundtable/young.html

とにかくアメリカ国民は自分ではどうしようもなかった。ベトナムが脳裏に
こびりついたままだった。例えば、あのベトナム戦争の古典的代名詞――ベ
トナムで米国が陥ったとされる――“泥沼”(quagmire)《*》を表す恥さ
らしの速記記号“Q”は、バグダードが陥落する前ですら、不気味な姿で浮
かび上がっていた。(ベトナム人にとって、ベトナムは沼地や湿地ではな
く、故国であることは、とりあえず措いておこう)
http://www.tomdispatch.com/index.mhtml?pid=2018

ベトナム戦時代の語法――格好な例をあげれば、ベトナムにおける前進を表
す頼もしい公式声明であり、その実、アメリカの失策と敗北にふさわしい
キャッチフレーズになった戯言〈たわごと〉「トンネルの向こうの光
《*》」――を避けたとしても、それらは地平線のすぐ向こうに見え隠れし
ていた。常にまやかしであり、常に望まれている「光」について言えば、あ
れやこれやの「転換点」や「決定的瞬間」、「画期的事態」にわれわれは達
した、「前進」は着実に実現しつつある、「武力衝突」の先細りが始まるの
も間近であるなどと、将軍たちや政府高官たちが連発する請け合いの背後に
この言葉が宿っている。(現実に起こったことを見れば、そのような転機の
あと、毎度、同じような状況が、より頻繁に、より悪質になって再現しただ
け)
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/07/18/AR2005071801713.html

言うまでもなく、今、わが国は惨憺たる戦争からの“撤退”局面に入ったの
であり、すでに政府の「撤退戦略」が浮上しているのも見えているが、これ
はまことにベトナム戦争を思い出させるものであり――ベトナム戦期
《1》、あの戦争からの“撤退”は、退却のふりをして、その実、戦争拡大
だけを目的とする、絶え間なく繰り出された策略だった(爆撃“停止”は爆
撃作戦の激化の前触れであり、交渉提案はまともに取り上げられることが
まったくなかった)のと同様――じっさいにイラクから抜けることを意味し
ていない。言うなれば、ニクソン政権時代の国防長官、メルヴィン・レアー
ドが、最近、フォーリン・アフェアーズ誌《2》にまたぞろ登場し、イラク
における成功をねらう戦争終結政策として、30年以上も前の彼の「ベトナ
ム化」政策の採用を要求したが、これなどはベトナム戦争時代に通用した言
葉――「イラク化」(それに、一度や二度ではなく登場した用語「イラク症
候群」《3》)――が今でもまかり通っているようなものだ。まったく途方
もない話。
1 http://www.tomdispatch.com/index.mhtml?pid=3475
2
http://www.foreignaffairs.org/20051101faessay84604/melvin-r-laird/iraq-learning-the-lessons-of-vietnam.html?mode=print
3
http://www.fortwayne.com/mld/newssentinel/news/editorial/12940373.htm

わが国がなんらかの形でイラクを占領している限り、どれほど多くあれこれ
論争しても、(当稿の筆者を含め《1》)どれほど多くの物書きが、二つの
戦争、二つの時代に横たわる火を見るより明らかな違いを言い立てたとして
も、あのベトナム=イラクの相似関係はどうにも解消しない。だが、このこ
とが問題なのではない。深く基本的、そしてアメリカ的な何かが、二つの時
代の間に未解消なまま身近に残っているようであり、それはじっさいにベト
ナムで戦った人たちにとってはなおさらのことであろう。ベトナム戦争体験
者となれば――トム・ディスパッチが、マイケル・シュワルツの記事、〝A
Formula for Slaughter, The American Rules of Engagement from the
Air”《2》[「虐殺の定式――アメリカの空爆実施規定」]を掲載したと
ころ、このサイトのEメール受信箱に大量のEメールが到着したが、そこに
見られるように――ベトナムとの対比がおのずから格別な形で生々しく浮き
上がる。シュワルツは、バグダードから150マイルばかり北の小さな町、
バイジで起こった事態に注目した。町の上空を飛んでいた米軍プレデター無
人偵察機に搭載されたカメラが、路傍に爆発物を仕掛けたと思われる3人の
男たちの姿を捉えた《3》。男たちは近くの家屋に逃げこんだようだった。
そこで海軍F14戦闘機隊が出動要請を受け、その家に対し機銃掃射を浴び
せ、「精密誘導弾」、たぶん500ポンド爆弾を投下した。ニューヨーク・
タイムズとワシントン・ポスト《4》の報道によれば、この攻撃の結果、た
またまそこに住んでいたというだけで、イラク人一家の12ないし14人が
遺体になって残された。続けてシュワルツは、この攻撃を容認した野蛮な米
軍「交戦規則」を検証し、航空戦力行使《5》の際限のない拡大に頼る、イ
ラクにおけるブッシュ政権の兵力削減政策について考察した。シュワルツは
こう結論する――「戦争を収束する道筋として喧伝されている米軍の新戦略
は、現実としてはイラク民間人虐殺の定式になっている」
1 http://www.tomdispatch.com/index.mhtml?pid=30163
2 http://www.tomdispatch.com/index.mhtml?pid=48180
3
http://www.heraldtribune.com/apps/pbcs.dll/article?AID=/20060104/ZNYT03/601040693/-1/ZNYT
4
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/01/03/AR2006010300524.html?referrer=email
5 http://www.newyorker.com/fact/content/articles/051205fa_fact

思ったとおり、この記事はベトナム戦退役者たちの強烈な記憶を揺さぶり、
その何人かが生々しい感想文をEメールで書き送ってくれた――それらは私
の胸に響くものであり、そのうちの2通を選別して、ここに掲載する。ウェ
イド・ケーンは、かつて戦闘ヘリの搭乗口射撃手・機長であり、フロリダ州
クレセント・シティから書き送ってくれた。元衛生兵、ジョージ・ホフマン
はオハイオ州ロレーンから書いてくれ、その土地を「クリーブランドより西
方30マイル、斜陽工業地帯の中心部に位置し、私のアパートは煙突の群れ
と製鉄所の景観に臨んでいます」と描写する。彼らの報告のどちらも、ベト
ナムとの対比に心痛む意味合いを加えている。トム

_____________
わが国が押しつけている惨事
イラクにおける「巻き添え被害」を語るベトナム戦退役者たちからの2通の
書信

_____________
ウェイド・ケーンからの手紙:

トムさん

無実の人を何年も死刑囚監房に繋いだあげく、たまには処刑してしまうこと
もきっとあるでしょうが、国家としての私たちは、冤罪処刑者をひとりも出
さないためには手立てを尽くしています。極悪の殺人者たちのみが死刑囚監
房に行き着くのだろうと思えます。そこで、イラクで、プレデター偵察機か
らの映像によって、何者たちかが道路脇に明らかに爆弾を仕掛けているのを
捉えたと認め、その情報にもとづき、その連中が隠れているかもしれない家
屋、実のところ関係のない人たちが住んでいても、そうとは知りようもない
住宅に500ポンド爆弾を投下する決定を下すとは、まったく皮肉なことで
す。

罪のない女たちや子どもたちを殺すのはOK、付随的[巻き添え]被害に
「すぎない」……もし、これが“OK”なら、カリー中尉がベトナムでやっ
たことがOKでなかったのは、どうしてだったのでしょう? 同じように、
ヒロシマとナガサキがOKで、ミライ[*]がそうでないのは、どうしてな
のでしょう? ともかく、わが国の兵士たちが至近距離から罪のない人びと
を撃ったら、私たちは仰天しますが、爆弾や火砲を用いて同じことをする場
合、“OK”なのです。
[ベトナム南部の村。ベトナム戦中の1968年、カリー中尉率いる米軍部
隊が同村ソンミ地区の住民を大量無差別に虐殺]

ミライ村事件の発生とほぼ同時刻、私はチヌック(ヘリコプター)の機長を
兼ねる射撃手として飛んでいました。小さな村落を通過していると、私のヘ
リ目がけて撃ったのか、銃声を一発、耳にしたと思いました。あるいは、た
だの「回転翼気流の破裂音」だったのかもしれません。村中を覗きこんでみ
ると、私なら、「のどかな佇〈たたず〉まい」と言い表したい光景のなか、
往来に女たちや子どもたちの姿を見ることができました。私の部隊の交戦規
則では、「応射」することもできたのですが、私はこれを適用しないことに
しました。ほぼ1時間後、たまたま私たちはその村をふたたび通過しまし
た。視界には人影ひとつ見えず、稲田のなか、集落があった場所、あちこち
におびただしい数の爆撃クレーターが口を開けていました。思うに、誰かが
発砲されたか、発砲されたと思いこむかして応射し、パイロットたちが爆撃
を要請したのでしょう。その村の人たちの誰ひとりとして、空襲から逃げる
時間があったとは思えません。その後、このできごとに関して何も聞かず、
ただミライ村事件だけ……

私は潔白の身ではありません。ほぼ同じころ、低空――AGL(対地高度)
約20フィート――を時速約225キロで飛んでいると、タピオカ畑を手入
れしている家族のうえを通過しました。私たちが接近したとき、12歳ぐら
いの男の子が鍬を手に取り、武器のようにして私たちのほうに向けました。
私はM60機銃を転回して撃とうとしましたが、わが機が速すぎたのです。
少年はわが機の撃墜を「実施」していたので、私の行動は正当な射撃である
と考えたはずです。今、私じしんが幼い息子たちを持つ身になって、自分が
あれほど無感覚になれたものだと仰天しています。

当地では、スターバックスのコーヒー店の装飾にフラッシュライト(閃光装
置)が使われたものですから、人びとは(爆弾ではないのかと)実に心配し
ました。じっさいはそうでなかったのですが、もしあれがほんものの爆弾で
あったなら、わが国が毎日のようにイラク人の住宅地区に投下しているもの
の約500分の1の火薬量に相当するでしょう。あの国で、わが国がどのよ
うな惨事を常態的に引き起こしているか、たいがいの人は理解していないか
のようです。例えば、本日、私の知人のひとりが、イラク駐留米軍にまつわ
る「心暖まる写真」を何枚か送ってきました。老婦人たちが指を突き上げ、
「ありがとう、ミスター・ブッシュ」のサインを示していたり、子どもたち
が微笑んでいたり……と言えば、お分かりでしょう。送ってくれた彼女が言
うには、「ニュースにならない」写真です。「ニュースにならない写真」と
言えば、わが国の爆弾が内臓を抉〈えぐ〉った子どもたちの写真は、どうな
のでしょう? ディック・デュランス著(ロン・コヴィク序)“Where War
Lives, a Photographic Journal of Vietnam”[『戦争の現場――ベトナム
写真ジャーナル』]に載っている類の写真です。

わが国は、世界を明るく照らす光であらねばならず、私たちの税金は、無辜
〈むこ〉の民を殺すためではなく、マラリア治療のために使うべきです。

私たちは恥を知らないのでしょうか?

あなたご自身をはじめ、この戦争の狂気を終わらせようと努めている方がた
に私は心からの感謝を表明いたします。

ウェイド・ケーン

戦時軍歴:
1967年6月〜68年6月――
SP/5 Wade O. Kane RA 14952996
Co. A, 228th AVN BN (ASH)
第一機甲部隊(空中機動班)
65年8月〜67年11月――チヌック64-13137、搭乗口機銃手
67年11月〜68年6月――チヌック64-13140、機長兼搭乗口機
銃手
68年2月〜68年6月――随時、チヌック隊のさまざまな機に搭乗口機銃
手として参加

作戦・戦闘歴:
ケソン渓谷およびLZ・レスリー
1968年テト[ベトナム暦正月]期、フエ陣地争奪戦
ケサンにて海兵隊の救出
68年4月、シャウ渓谷作戦

______________
ジョージ・ホフマンからの手紙:

トムさん

分っていただきたいのですが、イラクの地で就役しているアメリカ人男女の
生命だけでなく、このように多くの、罪のないイラク人の生命を奪ってい
る、この不必要な戦争に対して、大勢のベトナム戦体験者がまことに辛い思
いをしています。この戦争について、私がこれほど深い思いを抱いているの
は、きっと、ベトナム戦中の医療衛生兵として、1年もの間、毎日、私は病
院に通い、そのような犠牲者と対面し、内臓をいじくるようなレベルで彼ら
に対応しなければならなかったからだと思います。

ベトナム戦中、1967年5月31日から68年5月31日まで、私は医療
衛生兵としてカムラン湾の第12米空軍病院で勤務していました。同施設
は、戦傷兵の治療にあたるだけでなく、ベトナム国籍の人たちに供された特
別病棟も備えていました。そのベトナム人たちは、たいがいチュー[*]政
権の関係者や縁故者であり、教育程度が高く、官職に就いていました。だ
が、患者はたまには百姓だったり一般人だったりして、アメリカ人はその人
たちをこちらの味方に引き入れようとしている(人心掌握作戦)とされてい
ました。ところが、その人たちは爆弾破片による負傷者――「巻き添え被害
者」――だったのです。もちろん、アメリカ人に傷つけられたことに怒って
いて、彼らの人心はあちら、いわゆる邪悪なべトコン・ゲリラ側に行ってし
まっていました。
[グエン・バン・チュー(ティエウとも表記。Nguyen Van Tieu)――19
65年のクーデターで南ベトナム大統領に就任、ベトナム戦争期間の長くを
在任していた南ベトナム軍の実力者。75年、サイゴン陥落直前に台湾に逃
亡]

あいにく欠くわけにはいかない個人情報はこれくらいにして、あなたの最近
の速報記事に話題を移させてください。私はブッシュ政権の制空権にもとづ
く方針の根拠を理解していますが、軍事的には筋が通っているようでも、こ
れは外交的には完璧な失敗です。罪のない何千ものイラク人が、罪と言って
も、反乱勢力が潜む家屋の隣、またはその家に住んでいるというだけで、精
密誘導爆弾による、いわゆる外科摘出手術的な空襲により殺害されていると
私は確信しています。そして、ベトナムでもそうでしたが、イラクでもアメ
リカ人がイラク人の人心掌握に失敗し、イラク民間人を反乱勢力側に寝返り
させている主要な理由になっていると信じています。

主流メディアの記者たちや編集者たちが、このような作戦にともなってイラ
ク民間人を襲う恐ろしい現実に対して、たいがい無知なままであるのに加え
て、並みのアメリカ国民は、戦争の遂行方式にまつわるブッシュ政権のプロ
パガンダの餌に食いつき、引っ掛けられ、釣り上げられているようです。
「巻き添え被害」がどれほどひどいものになりうるか、一般市民はなんの考
えも持っていませんし、主流メディア機関はこの問題を報道するのを基本的
に拒んでいますので、こうしたことを学ぶのも困難になるでしょう。

もちろん、反乱勢力は、新たな死傷者が出るたびに、自分側への勧誘のため
の強力な材料に使えますので、アメリカの空爆方針が大好きです。イラクか
らヨルダンに出国した夫婦が、ファルージャの生き残りであったと判明した
ことと、彼らがアンマンのホテルに対する攻撃に加わった自爆者たちに含ま
れていたことには、偶然の一致以上のものがあると私は考えます。私が読ん
だ記事によると、ファルージャの住民たちはこの攻撃を密やかに祝ったそう
です。忘れてはなりませんが、2004年11月のファルージャ包囲攻撃
は、市内の全建設物の3分の1近くを破壊しつくしました。ベトナム戦時代
に不満タラタラだったのと同じように、その報いたるや、まったくのクxx
タレです。

ファルージャ包囲攻撃に関連して、別の問題があるのですが、こちらの方は
主流メディアで満足に報道されていません。包囲攻撃の最中、米軍は白燐
〈リン〉砲弾を使用しました。私はベトナムで兵士たちの治療にあたってい
ましたが、彼らは、白燐、またの名、不満分子の言うウィリー・ピーターで
コーティングされた砲弾破片によって負傷していました。ナパーム[濃化ゼ
リー状ガソリン]とは違って、ウィリー・ピーター砲弾片は、空気中で完全
に酸化するまで燃えつづけます。したがって、これは、皮膚を焼き破り、骨
にまで達するのです。またもや、米軍司令官たちは、イラク人たちをいわゆ
る彼らの解放軍に背〈そむ〉かせ、反乱勢力側に味方させる武器を用いたの
です。下院のマーサ議員[*]がこの戦争に反対する立場を公言しているよ
うに、ブッシュ政権に対する政治的な風当たりが強くなっているために、イ
ラクから撤退する米軍部隊が増えるようになって、戦地の米軍司令官たち
は、米軍兵の犠牲を最小限に抑えるように命令されているので、彼らは反乱
勢力を排除するうえで航空戦力を用いる方針に今以上に頼ることになると私
は確信します。
[ジョン・マーサ(73歳)。ペンシルベニア州西部選出の民主党下院議
員。下院国防小委員会の重鎮。2005年11月、米軍は「破綻して、苦境
にたたされている」と発言」

私の個人的見解をもうひとつだけ――何十年か先の将来の歴史家たちは、こ
のイラクにおける戦争を、現在の歴史家たちがベトナム戦争を振り返るのと
同じような眼で見ることになるでしょう。これら二つの戦争は、両者とも虚
偽の前提(ベトナム戦時のトンキン湾決議に対して、存在しなかったイラク
の大量破壊兵器と存在しなかったサダム・フセインのアル・カイダ聖戦集団
コネクション)にもとづいて正当化され、クラゲのような性根の持ち主であ
る議会の選良たちによって承認されました。

東南アジア諸国がドミノのように共産主義者たちの手中に落ちるとするLB
J(リンドン・ベインズ・ジョンソン大統領)によるプロパガンダは、イラ
クを中東における民主主義の模範に仕立てれば、周辺の王政諸国や独裁諸国
がとても多くのドミノ牌のように民主改革に雪崩れこむとするブッシュの主
張にあまりにもうまく対応しています。ベトナム戦争中に広く蔓延したアメ
リカ国民に対する違法な国内スパイ行為は、今日の、国家安全保障局(NS
A)ならびに米軍のTALONプログラムによるアメリカ国民に対する令状
のないスパイ活動に符合しています。最後に言っておきますが、LBJ政権
の鍵を握っていた高官たちと同じように、ブッシュ大統領がこの不必要な戦
争を遂行するのに影響を与えた当の高官たちが、国内の批判の矛先が自分た
ちに向けられると、イの一番に政権を離れます。もちろん、ここで私は、ベ
トナム戦争の立案者だったロバート・マクナマラ国防長官、イラクにおける
戦争で同じような役柄を勤めたポール・ウォルフォウィッツのことを言って
いるのです。彼らは二人とも世界銀行に逃げこみ、後に、それぞれが敵の意
思と決意を見損なっていたと認めています。しかも、ウォルフォウィッツの
場合、戦争がゲリラ戦型になったので驚いたと言っています。

LBJ政権のニュー・フロンティア主義者、ブッシュ政権のネオコン族、両
者の基本的な体質を言い表す単語を私が持ち合わせているとすれば、その言
葉は「傲慢」でしょう。

誠意をこめて

ジョージ・ホフマン

[原文]
Tomgram: Vietnam Veterans on Civilian Casualties in Iraq
posted at Tomdispatch on January 22, 2006
http://www.tomdispatch.com/index.mhtml?pid=51741
Copyright 2005 Tomdispatch

[翻訳]井上利男 /TUP