TUP BULLETIN

速報605号 マイク・デイヴィス「自動車爆弾の歴史」パート2  060511

投稿日 2006年5月11日

FROM: hagitani ryo
DATE: 2006年5月11日(木) 午前9時13分

☆「憎しみは、憎しみによっては解消しない」★
……因果の法則につづけて、いにしえの覚者は解脱の法を「憎しみは、愛に
よってのみ解消する」と説きましたが、自動車爆弾の歴史を見渡せば、復讐
が復讐を招き、コピーが容易な戦術は活躍の場をどんどん各地に広げ、憎悪
の輪廻をとどまることなく回転させているようです。
大量破壊兵器の除去を偽りの大義名分のひとつにした対イラク戦争が、自
動車爆弾という大量殺人兵器を普及させているのも、私たちの時代の不条理
きわまりない現実です。5月8日付け朝日新聞[総合版]第3面にも、「テ
ロ続発83人死亡(イラク)」という一行見出しのカイロ発記事で、「イラ
ク各地で6日から7日にかけ、自動車爆弾が4件連続して計13人が死亡す
るなどテロが相次ぎ、暗殺を含め、2日間で計83人の遺体が見つかっ
た……南部バスラで6日、英軍ヘリが墜落し、英軍要員5人が死亡し
た……」と報じられています。バリやロンドンの事件の大見出しが連日踊る
報道ぶりに照らし、[占領軍兵士も含め]なんという命の軽さ! 井上

凡例: (原注)[訳注]〈ルビ〉《リンク》
―――――――――――――――――――――

トムグラム:
マイク・デイヴィス、“因果応報”の世界を語る
(自動車爆弾の歴史、パート2)

[トム・エンゲルハートによるまえがき]

マイク・デイヴィス(鳥インフルエンザに関するものとしては唯一意義のあ
る書籍“Avian flu, The Monster at Our Door”《1》、そして世界のそう
とうな部分が急速に都市化し、しかも同時に非・産業化している状況に関す
る驚くべき分析の書“Planet of Slums”《2》の著者)は、自動車爆弾に
関するユニークな歴史記述のパート1「貧者の空軍力」において、1984
年の決定的な瞬間に私たちを誘った。ヒズボラが大型の自動車爆弾による多
発攻撃を敢行し、レーガン政権にレバノンからの敗走を余儀なくさせ、たぶ
ん永久に私たちの世界の様相を一変させてしまったのは、この時である。デ
イヴィスによる歴史記述のパート2においては、“代理テロ”後援のしっぺ
返しが世界中で逆風となり、自動車爆弾がほぼ普遍的な破壊兵器になる“因
果応報”の世界に、私たちは突入する。トム
1.『感染爆発――鳥インフルエンザの脅威』柴田裕之・斉藤隆央訳、紀伊
国屋書店
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9980525479
2.仮題『スラムの惑星』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/1844670228

翼を生やした自動車爆弾
自動車爆弾の歴史(パート2)
――マイク・デイヴィス

CIA公立自動車爆弾大学(1980年代)

「ユーセフが組んだCIA要員たちは、お客さんの議員たちと話すとき、破
壊工作とか暗殺といった言葉を出してはならないと、口を酸っぱくして、
ルールを彼に吹きこんだ」

――スティーヴ・コール著“Ghost Wars”[『ゴースト・ウォーズ=幽霊戦
争』]

砲艦外交がレバノンの自動車爆弾に敗北し、レーガン政権、なかでもウィリ
アム・ケイシーCIA長官は、ヒズボラに対する復讐心で胸を焦がしてい
た。ワシントン・ポストのボブ・ウッドワードは、著書“Veil: The Secret
Wars Of The Cia, 1981-1987″《*》に次のように書いた――「ついに19
85年、彼[ケイシー]は、海兵隊営舎爆破だけでなく、ベイルートのアメ
リカ国籍者人質事件の黒幕のひとりであると目した(ヒズボラ指導者)シャ
イフ[族長]・ファドララーの殺害を期して、自動車爆弾作戦計画をサウジ
アラビア当局筋と組んでまとめあげた……これはケイシーの裁量によるもの
であり、当人が『私がでっかい問題を解決するにあたり、基本的にテロリス
トと同程度に手厳しくなって、あるいはもっと非情になって、やつらの兵器
――自動車爆弾――を使うつもりだ』と語っていた」
[仮題『ベール――CIAの隠密戦争、1981年〜87年』]
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/listmania/list-browse/-/2QIX1RU6H2UH8

しかし、CIA直属の工作員に爆破作戦を遂行させるわけにはいかないと判
明したので、ケイシーは、これを、元英軍SAS[特殊空挺部隊]将校が統
率し、サウジアラビア大使を務めるバンダル王子が資金面で支えるレバノン
の工作員たちに下請けさせることにした。1984年3月、ベイルート南部
のシーア派人口密集地、ビル・エルアベドにあるシャイフ・ファドララーの
居宅から50ヤード[約45メートル]離れた地点で、大型自動車爆弾が炸
裂した。族長は無傷だったが、罪のない80人の近隣住民や通行人たちが殺
され、負傷者は200人に達した。事件の直後、修羅場の惨状を呈する街路
いっぱいに、ファララーは「メード・イン・USA」と大書した横断幕を掲
げたが、その一方、9月になると、自爆トラックが、ベイルート東部(キリ
スト教徒居住区)の新たな米国大使館の周辺に張り巡らされ、難攻不落であ
るはずの警備網を突破して、大使館職員や来客の23名を殺害するにおよん
で、ヒズボラは目には目の報いを果たした。

ケイシーは、ファドララーにまつわる大失態にもかかわらず、とりわけアフ
ガニスタンのソ連軍とその同盟軍に対するアメリカの目標を追及するため
に、都市テロ手段の熱心な信奉者でありつづけた。ビル・エルアベドの惨劇
の1年後、ケイシーは、レーガン大統領の承認にもとづき、NSDD[国家
安全保障決定指令]166号を発動したが、これは、スティーヴ・コール著
『ゴースト・ウォーズ』によれば、「米国の最先端軍事テクノロジー、イス
ラム主義ゲリラを対象とする爆発物と破壊工作の強化訓練、ソ連軍将校を標
的とする攻撃を、直接、アフガニスタンに導入する新しい時代」を開く秘密
指令だった。

これ以降、米軍特殊部隊のエキスパートたちが、モハメド・ユーサフ准将指
揮下のパキスタン軍統合情報本部(ISI)要員たちに対し、爆発物、およ
びANFO(硝酸アンモニウム燃料油)自動車爆弾の製造法を含む最先端の
破壊工作テクニックを供与することになった。技術を習得したISI部員た
ちは、サウジアラビア政府が資金面で支える多数の訓練キャンプで何千もの
アフガン人や、将来のアルカイダ幹部を含む外国人ムジャヒディン[イスラ
ム義勇戦士]にそれを教えこんだ。「ムジャヒディンは、ISIによる監督
のもとで訓練を施され、主としてソ連占領下の市街におけるソ連軍将兵の殺
害を狙った自動車爆弾、さらにはラクダ爆弾さえも駆使する攻撃に用いる、
扱いやすい爆薬を支給された」とコールは書く。「CIAキャリア組の一部
が懸念を示したにもかかわらず、ケイシーはこれを承認していた」

アフガニスタンにおける一連の熾烈な攻撃で、ムジャヒディンの自動車爆弾
班は、狙撃班や暗殺班と連携して、ソ連軍将兵を脅かしただけでなく、首都
カブールの左派知識人たちをも殺害した。「ユーサフや彼が訓練したアフガ
ン人自動車爆弾班」は、映画館や文化行事だけでなく、「カブール大学の教
授たちを格好の標的とみなしていた」とコールは書く。[米]国家安全保障
会議筋の一部は、爆破や暗殺を「明白なテロ」と呼んで糾弾していたと伝え
られているが、ケイシーはこうした成果に大喜びだった。ところが、「共産
主義支配から逃れたアフガン難民たちが、はじめて結成した、世俗派や左
派、王党派の諸政党の事実上すべてを、1980年代末期にはISIが排除
していた」。その結果、サウジアラビアやワシントンがアフガニスタンに注
ぎこんだ数十億ドルの資金の大部分は、ISIが後ろ盾になっている過激な
イスラム原理主義諸集団の手のうちに残ることになった。これらのグループ
は、CIAが供給した大量のプラスチック爆薬だけでなく、何千もの電池式
遅延信管の受け皿にもなった。

これはテロ戦術に関連する史上最大の技術移転だった。怒れるイスラム原理
主義者たちは、パキスタンの国境地帯にあるCIA後援の都市破壊活動・大
学院課程に進学した時点で、ヒズボラによる自動車爆弾・公開講座に出席す
る必要がなくなった。「ユーサフと彼の仲間たちがNSDD166号指令に
もとづく膨大な予算を活用して築いた巨大規模の教育基盤――特殊訓練場、
破壊訓練教則、電子式起爆信管、その他――は、10年後のアメリカでは、
あたりまえのように“テロ基盤”と言い慣わされるようになった」とコール
は見る。おまけに、1993年の1回目の世界貿易センター攻撃を企画した
ラムジ・ユーセフや、2回目を計画したと言われる彼の叔父、ハリド・シャ
イフ・モハメドをはじめとするISI訓練キャンプ卒業生たちは、ほどなく
すべての大陸で自分たちの専門技能を活用することになった。

包囲された諸都市(1990年代)

「一触即発の状況、無制約テロの時が到来した」

――ペルーのジャーナリスト、グスタボ・ゴリッチ、1992年

21世紀になってからの後知恵に照らせば、1983年から84年にかけて
の米国の対レバノン干渉政策の失敗と、それにつづく、アフガニスタンにお
けるCIAの汚い戦争は、75年のサイゴン陥落のときよりも、もっと広範
で、もっと重大な結果を招いてしまったことが明らかになる。ヴェトナム戦
争は、もちろん、アメリカの国内政治に痕跡をいまだに深く残す叙事詩的な
紛争だったが、あくまでも超大国二極対立の時代の産物だった。それにひき
かえ、ベイルートやレバノン南部におけるヒズボラの戦争は、新千年紀を特
徴づける“非対称の”紛争を先触れする(あるいは刺激さえする)ものだっ
た。おまけに、自動車爆弾攻撃や自爆テロは、NLF[ヴェトナム民族解放
戦線]と北ヴェトナム国民とが世代を超えて維持していた規模の人民戦争と
は違って、簡単に伝播・拡散するし、おぞましいことに、多種多様な筋書き
のもとで応用もできる。辺境ゲリラは、カシミール、カイバル峠、アンデス
のような荒涼とした天然の要塞に生き残っているが、世界的に見た反乱の重
心は、辺境から都会やその周辺のスラムに回帰している。このポスト冷戦時
代の都市化の流れのなかで、ヒズボラによる海兵隊営舎爆破はテロの金字塔
的な標準になった。9・11攻撃といえども、自爆トラックから旅客機への
不可避的なエスカレーション[拡大]にすぎないとも言える。

それにしても、ワシントンは、強力な車両爆弾が敵側に提供した新しい軍事
目標追求能力をなかなか評価しようとしなかったし、その驚くべき殺傷能力
を認識することさえも嫌がっていた。1983年のベイルート爆破攻撃のあ
と、ニューメキシコ州のサンディア国立研究所がトラック爆弾の物理的特性
に関する集中研究を開始した。研究員たちは、自分たちが得た知見に衝撃を
受けた。トラック爆弾は、致命的な衝撃波に加えて、意外なことに膨大なエ
ネルギーの地盤震動を発生させていた。

「トラック爆弾を中心に地盤中に伝わる横揺れ加速は、地震の最大マグニ
チュード期のそれよりもはるかに大きい」 じっさい、原子力発電所に近い
構外での爆発でさえも、「きわめて深刻な放射能漏れや、ことによるとメル
トダウンすら引き起こす損傷をもたらしかねない」と、サンディアの科学者
たちは結論した。それにもかかわらず、1986年、原子力規制委員会は、
原子力発電施設を防護するための車両止めの設置を認可せず、何人かのテロ
リストの徒歩による侵入の阻止を想定した時代遅れの保安計画を改める動き
をみせなかった。

じっさい、ワシントンは、みずからのベイルートにおける敗北にしろ、アフ
ガニスタンにおける隠密裏の成果にしろ、明白に突きつけられている教訓か
ら、なにも学ぼうとしていなかったようだ。レーガン、ブッシュ両政権は、
ヒズボラの爆弾攻撃をまぐれあたりと考え、帝国的行動の失策や対ソ連戦の
脱線行為に対する“ブローバック[しっぺ返し]”として反復される強力な
新種の脅威とはみなしていなかったらしい。すぐにでも他の反乱集団がヒズ
ボラを見習おうとするのは避けられなかったのに、アメリカの政策立案者た
ちは――責任は部分的であったにしても――1990年代の自動車爆弾攻撃
の驚くべき“グローバル化”や、それに伴う、都市状況の不安定化を狙う巧
みで新しい戦略をおおむね予見しそこねていた。だが、90年代中ごろに
は、第二次世界大戦終結以降のどの時点よりも多くの都市が爆弾攻撃に包囲
された状況にあり、都市ゲリラは、世界最有力の金融施設のいくつかを直撃
するために自動車爆弾やトラック爆弾を使っていた。しかも、ひとつひとつ
の成果が、もろもろの集団を鼓舞して、さらに多くの攻撃を計画させ、もっ
と多くの集団に、それぞれ独自の“貧者の空軍”を発足させる動機を与えて
いた。

例えば、1992年4月初め、秘教的な毛沢東主義集団、センデロ・ルミノ
ソ[輝く道]がペルーの高原地帯から降りてきて、リマ[首都]やカヤオ
[リマの外港]の市街地の全域で、ますます威力を増すコチェ・ボンバ[自
動車爆弾]を用いてテロを拡散した。「鉱業国では大量の爆薬がなんなく入
手できる」とカレタス誌は書いているが、センデリスタたちは気前よくダイ
ナマイトのプレゼントを配ってまわり、テレビ局や諸国大使館、それに十指
にあまる警察署や軍隊駐屯地を爆破した。彼らの作戦は、小規模な爆発には
じまって、アメリカ大使館に対する、もっと強力な攻撃、さらには同時に車
両16台を用いた“血の金曜日”タイプの無差別攻撃へと発展するにおよん
で、不気味なまでに自動車爆弾の系統発生を再現していた。クライマックス
(そして、この分野でのセンデロの最大の功績)は、“階級の敵”居住区の
全域を爆破する企てであり、7月16日の夕刻、特権階級地区であるミラフ
ロレスにおける巨大なANFO爆発が、死者22名、負傷者120名、全壊
または半壊家屋183棟、事業所損壊400棟、駐車中の車の損傷63台の
被害を出した。ミラフロレスは「まるで空襲に遭って壊滅した」かのよう
だ、と地元紙が描写した。

空軍力の取り柄のひとつが、地球を半周して敵の寝首をかく能力にあるとす
れば、1993年、中東の集団が西半球の標的をはじめて攻撃したとき、自
動車爆弾はほんとうに翼を生やしたことになる。2月26日の世界貿易セン
ター攻撃は、アルカイダの爆弾作りの名手、ラムジ・ユーセフが、ニダル・
アヤドという名のクウェート人技術者、それに、(噂によれば、CIAの手
筈により米入国ビザを取得した)シーア派イスラム教徒、オマル・アブダル
・ラーマンが率いるエジプトの集団、ガマア・アル・イスラミヤの移民メン
バーと組んで、準備したものだった。彼らの並外れた野心は、強烈な横方向
爆発をもって、WTC(世界貿易センター)の双子タワーの一方の基礎部を
破壊し、他方に向かって横転させることにより、万単位のニューヨーク市民
を殺害することにあった。ユーセフの兵器は、古典的なIRA・ヒズボラ流
ANFO爆薬の独創的な改良型を詰めこんだライダー・バンだった。

「爆弾本体は、結合材として古紙を詰め、硝酸尿素と燃料油のスラリー[懸
濁液]を満たした4個の段ボール箱で構成されていた」と、ピーター・ラン
ゲは彼の自動車爆弾史に書く。「箱は圧縮水素ガスの4フィート・ボンベの
列に周囲を取り巻かれていた。これらには、緩慢燃焼性の無煙火薬を布で包
んだ、20フィート長の導火線4本が接続されていた。ユーセフは、膝の上
で、4本の薬ビンのニトログリセリン量を調整した」 共同謀議者たちが北
塔の耐荷重壁の際〈きわ〉にバンを停めることは簡単にできたが、大量の爆
薬といえども、少なすぎた――地下4階分の爆発孔を掘削し、死者6名、負
傷者1000人を出しただけで、塔を倒すことはできなかった。「今回、わ
れわれの計算は、非常に正確なわけではなかった」と、ユーセフは手紙に書
いた。「だが、次回には、非常に正確になるだろうはずであろうと(マ
マ)、標的のひとつは貿易センターになるだろうと、われわれは君たちに約
束する」

WTC攻撃の2週間後、ボンベイ証券取引所の地下駐車場で、同程度の威力
の爆弾が炸裂し、28階建て高層ビルを大きく損傷し、50人の事務職員た
ちを殺害した。まもなく、他の12か所で自動車やオートバイの爆弾が炸裂
し、さらに207人の死者と1400人の負傷者を出した。これらの爆弾攻
撃は、数か月前の事件、インドのヒンドゥー教徒が数百人のインド人イスラ
ム教徒を殺害した異教徒排斥暴動に対する報復だった。この攻撃は、国外追
放中のボンベイ暗黒街の帝王、ダウッド・イブラヒムが、パキスタン情報部
の依頼を受け、ドバイを策動地として仕組んだものであると伝えられてい
る。一説によれば、ダウッドは3隻の船をドバイから派遣し、カラチで軍用
火薬を船積みさせた。ボンベイで“黒いスープ”が秘かに陸揚げされている
間、インド税関の官吏たちは買収され、横を向いていた。

1993年3月17日、アルゼンチン、ブエノスアイレスのイスラエル大使
館が神風自動車爆弾攻撃にみまわれ、死者30人、負傷者242人の被害が
出たときも、腐敗官吏たちが手を貸していたと噂された。後に南レバノン出
身で29歳のヒズボラ過激分子と認定された二番手の“殉教者”が、7階建
てのアルゼンチン・イスラエル交流協会ビルを壊滅させ、死者85人、負傷
者300人以上の被害を出した。両事件とも、爆弾テロリストはベイルート
方式を忠実になぞっていたし、1995年1月、アルジェの中央警察本部に
車で突入し、死者42人、負傷者280人以上を出したイスラム過激派も、
やはり同じだった。

だが、ヒズボラの至高のアコライト[カトリック用語acolyte=持祭]たち
は、自動車爆弾攻撃を大規模に展開した唯一の非モスレム集団、スリランカ
のタミールの虎だった。じっさい、彼らの指導者、プラバーカランは、「駐
ベイルート米軍とフランス軍の営舎に対する1993年の自爆攻撃の殺傷効
果を見て、自爆攻撃戦術の採用という戦略決定を下した」。タミールの虎
は、83年に最初の同種作戦を実行してから2000年までの期間に、ヒズ
ボラとハマスによるものをすべて含めた件数の2倍に達する自爆攻撃をおこ
なっている。タミールの虎は(例えば、スリランカ軍駐屯地に対する戦端を
開くとき、トラックに乗った神風特攻隊を用いるなど)通常の軍事作戦に自
動車爆弾を組み込んだが、タミールの独立をめざす闘争において、彼らのこ
だわりと「最も重視された作戦区域」とは、スリランカの首都、コロンボに
あって、最初の自動車爆弾を87年の中央バス・ターミナルに対する容赦の
ない攻撃で使い、複数の混みあったバスのなかで乗客多数を焼き殺してい
る。

1996年1月、特攻志願の精鋭――いわゆるブラック・タイガー――が、
軍用高性能爆薬440ポンド[200キログラム]を積載したトラックで、
中央銀行ビルのフロントに突入し、その結果、1400人近くの死傷者が出
た。20か月後の1997年10月、タイガーたちは、もっと込み入った作
戦を決行し、コロンボ世界貿易センターの双子タワーを攻撃した。彼らはバ
リケードの間をすりぬけ、センターの前で自動車爆弾を起爆させたのにつづ
けて、警官隊を相手に、自動小銃や手榴弾で戦った。翌3月、鉄片を詰めた
爆弾を車体に固定した自爆マイクロバスが、鉄道中央駅の外で、大渋滞のさ
なかに爆発した。死者38人のうち、12人はスクールバスの子どもたち
だった。

タミールの虎は、“解放自治領”、本格的な陸軍、さらには小規模な海軍さ
えも備えた大衆民族主義運動であり、おまけに、インド首相、インディラ・
ガンジーとインド版CIA――調査分析部(RAW)――の厚意により、1
983年から87年の間に、2万人のタイガー幹部要員がインドのタミルナ
ドゥ州で民兵訓練を受けていた。だが、1993年、インディラの子息にし
て後継首相、ラジヴが女性自爆タイガーに殺害されるにおよんで、そのよう
な後援は、インドの国民会議派指導部の面前で文字どおりに吹き飛んでし
まった。じっさい、スポンサーがCIAであろうが、RAWであろうが、あ
るいはKGB〈クーゲーベー〉であろうが、代理テロのあまりにもお馴染み
の常態は――最も世に知れた事例として、CIAの元“子飼い”、盲目の
シャイフ・ラーマンやオサマ・ビンラビンのように――“送り主にお返しす
る”行為なのである。

1995年に勃発したオクラホマ・シティ爆弾事件は、イラク人や他のイス
ラム集団などではなく、米国の怒れる湾岸戦争帰還兵2名によって仕組まれ
たブローバック[しっぺ返し]の衝撃的な別種だった。陰謀説に与する人た
ちは、テリー・ニコラスとラムジ・ユーセフとが1994年11月にフィリ
ピンのセブ市で接近していたとする奇妙な符号を重視しているが、攻撃の全
体像は、悪魔の手引書、“The Turner Diaries”[『ターナーの日記』]に
触発されたティモシー・マクベイの妄想の産物である。血の金曜日のあとだ
が、ベイルート多発爆破事件が起きる前の78年に書かれた、ネオナチ信奉
者、ウィリアム・ピアースによる小説は、白人至上主義者たちがワシントン
DCのFBI本部をANFOトラック爆弾で破壊し、次いで、強奪核兵器を
搭載した航空機をペンタゴンに突っこませるという筋書きを、ポルノ風味添
えで追っている。

マクベイは、通常の暖房用燃料油に替えて、レーシング用ニトロ油とディー
ゼル油を使っていたにしても、ユーセフによるWTC仕様の手の込んだ調剤
法ではなく、小説どおりの処方(駐車中のトラックに仕込んだ硝酸アンモニ
ウム数トン)を注意深くなぞっていた。それでも、1995年4月19日、
アルフレッド・ミュラー連邦ビルにいた168人の人びとを惨殺した爆発
は、アルコール・煙草・銃器局、その他の連邦政府機関がニューメキシコの
実験場で研究していた、どの自動車爆弾炸裂よりも3倍は強烈な威力をもっ
ていた。専門家たちは破壊の広がりの大きさに驚嘆した。「4100ポンド
[約1860キログラム]のダイナマイトに匹敵し、爆風は、ビル312棟
に損傷を与え、2マイル遠方におよぶガラスを粉砕し、ビル外の半径半マイ
ルにおよぶ範囲内にいた人びとの80パーセントを負傷させた」 遠方の地
震計は、この爆発をマグニチュード6.0相当の地震として記録した。

だが、ハートランド[保守・伝統的価値観の支配地帯]のDIY[自作主
義]的な才覚が極悪非道な形になった、マクベイの古きよき時代の爆弾とい
えども、破壊力の真打ちとはとても言えなくて、じっさいのところ、都市殺
戮技術の優劣を競う闇世界オリンピックの覇者が中東の本場チームになった
のは、たぶん不可避のことだった。1996年6月、ヒズボラ民兵と疑われ
る者たちが、ダーラン[ペルシャ湾岸の町]のコバル・タワーズ――駐サウ
ジアラビア米空軍の人員が使っていた高層住宅――の外側に放置した巨大な
トラック爆弾は、死傷者数(死者20人、負傷者372人)こそオクラホマ
・シティの記録におよばなかったが、その爆発力は、おそらく2万ポンド
[約9トン]爆弾に相当し、威力において、すべての記録を塗り替えてい
る。また、爆発の直前に避難をはじめた空軍衛兵たちの機転がなければ、死
者数は93年のレバノンにおける海兵隊営舎のときのものに匹敵することも
ありえた。さらにまた、(軍事級プラスチック爆薬の)炸裂は、幅85
フィート[26メートル]、深さ35フィート[約10メートル]の爆発孔
〈クレーター〉を残した。

2年後の1998年8月7日、アルカイダは、米国海兵隊とフランス軍の両
ベイルート駐屯地に対する93年の同時攻撃を再現して、ナイロビの駐ケニ
ア、ダル・エルサラムの駐タンザニア米国両大使館のそれぞれに自爆トラッ
クを突入させ、大量殺人レースにおける優勝を誇示した。ナイロビの米国大
使館は、プルーデンス・ブッシュネル大使が国務省にむなしく訴えていたと
おり、市内で最も繁華な2本の街路の近くに立地しながら、適当な障害物や
防護用土塁もなく、攻撃に対して桁落ちに無防備だった。この事件では、巨
大な爆発のために、主として一般のケニア国民が――自分の車のなかで生き
ながら焼かれたり、飛んでくるガラスに引き裂かれたり、燻〈くすぶ〉る瓦
礫に埋められたりして――犠牲になり、死者は数百人に達し、負傷者は50
00人を超えた。ダル・エルサラムの別件では、12人が死亡し、100人
近くが負傷した。

無辜のイスラム教徒たちの犠牲を含め、自分たちの仕掛けが引き起こす巻き
添え被害に対する徹底した冷淡さは、アルカイダ系列が仕組む作戦の品質証
明でありつづけている。オサマ・ビンラディンは、ヘルマン・ゲーリング
[ナチス空軍総司令官]やカーティス・ルメイ[東京大空襲を指揮した米空
軍司令官]といった彼の先駆者たちと同様、爆撃被害の冷たい統計数字――
より大きい爆発力、より多い殺害数を競うレース――を見て小躍りしている
かのようである。バリ島のナイトクラブに対する2002年10月の攻撃
(死者202人)や、05年7月、エジプト、シャーム・エルシャイフにお
けるホテル爆破(死者88人)では、昔懐かしい“十字軍兵士たち”と同程
度に多くの地元従業員たちが殺害されたことがほぼ確かであるにもかかわら
ず、オサマの最近のフランチャイズ展開における儲け頭のひとつは、(空の
旅、高層ビル、公共交通機関に対するものと並んで)主としてモスレム諸国
に滞在中の欧米人観光客に対する自動車爆弾攻撃になっている。

形が恐怖に従う(1990年代)

「自動車爆弾はゲリラ戦の核兵器である」

――ワシントン・ポスト紙コラムニスト、チャールス・クラウトハマー

「10億ポンド相当の爆発」とは、なんだろう? ひとつの意味は、もちろ
ん、ヒロシマ級原爆3発ないし4発分のTNT換算威力の爆発である(言っ
てみれば、これは水爆1発分の威力の指先にもおよばない)。正解は別に
あって、10億(英)ポンド(14億5000万米ドル)は、1993年4
月、世界第二の基幹金融センターの中心部、ナットウエスト・タワーの向か
い側のビショップスゲート道路上で、1トンのANFO爆薬を搭載した青い
ダンプカーが爆発したときに、IRAがロンドン市に与えた損害額である。
この途方もない爆発によって、ひとりの第三者が殺され、30人以上の人た
ちが負傷したにしても、同時に、中世建築の教会が全壊し、リヴァプール・
ストリート駅が破壊されたのであり、この攻撃の真の目標だった経済的損失
に比べれば、人的被害は付随的だった。90年代の――リマ、ボンベイ、コ
ロンボ、その他における――他のトラック爆弾作戦は、ほぼ字句どおりにヒ
ズボラの脚本をなぞっていたが、「[北アイルランド]紛争勃発以来、最高
に成功した軍事作戦」とモロニーが描写する、このビショップスゲート爆弾
攻撃は、90年代の大半を費やして継続した困難な和平交渉において、英国
側の譲歩を引き出すための新戦略の一環として、IRAが発動した金融セン
ターに対する戦争行為だった。

ビショップスゲート事件は、伝説的な“スラブ[厚板]”・マーフィーの指
導下にある精鋭の(そして多かれ少なかれ自律した)南アーマー[北アイル
ランドの州]IRAが決行し、大当たりを取った3件の爆破の二番手であ
り、最大の損害を出したものだった。ほぼ正確に1年前、同部隊がセントメ
アリー・アックスのバルティック商業海運取引所に仕掛けたトラック爆弾
は、100万ポンドのガラス片や破砕物を周辺の街路にまきちらし、3人の
死者、100人近くの負傷者を出した。被害額はビショップスゲート事件の
ものにおよばなかったが、それでも驚異的であり、北アイルランドにおける
爆破事件の損害の22年間分の累積額、約6億ポンドを凌駕する約8億ポン
ドだった。次いで1996年、和平会談が停滞し、そのころに成立していた
停戦に、IRA軍事評議会が不満を募らせている状況にあって、南アーマー
旅団は、三番手の巨大なトラック爆弾をイングランドに潜りこませ、高級化
したロンドン波止場地域に並ぶポストモダン様式のオフィスビルの地下駐車
場で爆発させ、死者2名を出すとともに、1億5000万ドルに迫る損害を
与えた。3件の爆発の被害総額は、少なめに見積もっても30億ドルにな
る。

ジョン・コーフィーが、爆弾攻撃の衝撃に関する彼女の本で指摘しているこ
とだが、IRAが、タミールの虎やアルカイダのように、単に恐怖の種をま
き、ロンドンの日常生活を停止に追いこむことを願っていただけなら、平日
のラッシュアワーに合わせて爆発を仕掛けていたはずだ――が、そうではな
く、爆弾は「シティ[金融街]が実質的に無人化する時間帯に炸裂した」
――し、2005年7月、イスラム自爆戦士たちがロンドンのバスや地下鉄
を爆破したように、交通基盤の心臓部を攻撃していたはずである。だが、ス
ラブ・マーフィーと仲間たちは、英国やヨーロッパの足腰が弱った保険業界
は金融ネットワークの弱点になっていると気づき、そこを集中的に突いてい
たのである。敵側にとって恐ろしいことに、これはたいした見ものになる成
功を収めた。ビショップスゲート事件の直後、「保険各社による巨額支払い
は、世界の主導的な(再)保険市場、ロンドンのロイド協会を倒産間際に追
い込むなど、業界の危機を進展させた」とBBCは論評している。ドイツや
日本の投資家たちは、物的保安手段が改善され、政府が保険経費の助成に同
意しないかぎり、シティをボイコットすると警告した。

アイルランド人によるロンドン爆弾攻撃の長い歴史は、フェニアン団とヴィ
クトリア女王の時代にまで遡ることができるにもかかわらず、ダウニング街
[首相官邸]も、ロンドン市警も、正確に狙いを定められた物的・経済的被
害のこのような規模を予見していなかった。(じっさい、スラブ・マー
フィー本人がビックリしたかもしれず、第一世代のANFO爆弾と同様、こ
れらのスーパー爆弾は、IRAにとって思わぬ掘り出し物だった) シティ
の対応策は、1972年の血の金曜日のあと、ベルファストの市街地中心部
の周囲に設置された“鋼鉄環状防衛線”(コンクリート製防壁、背高の鉄製
フェンス、頑丈な通用門)の洗練版だった。ビショップゲート事件を受け
て、経済新聞は、「テロ攻撃を未然に防ぐために、シティーは中世流の城砦
区域に改造されなければならない」と、同様な防護策を声高に求めていた。

シティで現実に実施された対策は、交通規制・遮断線や「警察データベース
に接続されたナンバー・プレート常時自動記録(ANPR)カメラ」を含む
有線TVカメラに、公衆・個人に対する警察活動の強化策を結合する、技術
的にもっと洗練されたネットワークの構築だった。「10年を費やして、ロ
ンドンのシティは、1500台の監視カメラが作動し、その多くがANPR
システムに接続された、英国随一、おそらく世界一番の監視下区域に造り替
えられた」とコーフィーは書く。

2001年9月11日以降、このテロ対策監視システムは、市民を交通渋滞
から解放するという触れ込みによる、ケン・リヴィングストン市長の名高い
“混雑度評価”構想という善意の装いのもとで、ロンドン中心部全域に拡大
された。英国の代表的な日曜新聞によれば――

「オブザーヴァーの取材により、9・11攻撃をきっかけに、MI5[軍事
情報活動第5部]と公安部、それにロンドン警視庁がシステムの開発を秘か
に進めていることが分かった。つまり、物議をかもしてきた構想は、明日で
稼動1週間目を迎えるとともに、世界的な大都市を守る、最も威圧的なもの
に数えられる防衛システムを創出することになる。また、システムは顔面認
識ソフトをも活用して、8平方マイル圏内に入域する犯罪容疑者や既知の犯
罪人を識別することになると理解される。該当者の詳細な動きが、入域時点
からカメラで追跡されることになる……しかし、昨日になって、市民的自由
権運動団体は、当初はロンドン中心部における交通渋滞の緩和手段として推
進されてきた構想がもつ二重機能のために、数百万の市民が誤解していると
主張した」

既設のものだけでも大掛かりだったロンドンのヴィデオ監視システムに、2
003年になって、この新型の円形刑務所方式の交通走査システムが追加さ
れるにおよんで、平均的な市民は「一日に300回は有線TVカメラに捉え
られる」ことが確実になった。これによって、警察が非自爆型のテロリスト
を逮捕することは容易になるかもしれないが、計画がよく練られ、上手に仮
装された車両爆弾攻撃から市域を守るためには、それほど役に立つわけでは
ない。ブレアの“第三の道”は、ジョージ・オーウェル流の監視社会の導入
と市民的自由権の侵害のための高速車線であってきたが、遠方にいる当局者
が、ラッシュアワーの車の流れのなかから爆薬の分子をひとつかふたつ“嗅
ぎわける”ことができるような、なんらかの魔法の技術が出現するまでは
(そして、そのような技術はまだ視界に見えていないので)、自動車爆弾魔
たちは出勤しつづけるだろう。

イラクの“王様”(2000年代)

「バグダードだけで、3時間内に8件の爆破事件が発生したのを含め、反乱
勢力は日曜日にイラク全域で計13台の自動車爆弾を爆発させた」

――AP通信、2006年1月1日付け配信記事

古今東西を見渡しても未曾有なまでに、イラクは――ブルッキングズ研究所
の調査員たちによれば、2004年から05年にかけての期間に、1293
件ばかり発生した――自動車爆弾事件のためにズタズタになってしまった。
最低の評判をとっている自動車爆弾は、宗派に殉じるジハード戦士が運転し
たり、あるいは仕掛けたりして、住宅やモスク、警察署やマーケットの前で
シーア派イラク国民を標的にしてきたものであり、それらによる死者の数
は、ムサイーブで98人(7月16日)、バグダードで114人(9月14
日)、ブラドで102人(9月29日)、アブサイダで50人(11月19
日)といった具合であり、この記録はまだまだ続く。

ムサイーブを破壊した盗難タンクローリー転用爆弾のように、仕掛けのいく
つかは巨大ではあるが、ことさらに異常きわまる点は――2005年7月の
ある48時間内に、バクダード市内またはその周辺で、少なくとも15件の
自爆自動車攻撃による爆発が起こるなど――その発生頻度そのものである。
最悪の大量殺人事件の背後にいるとされている悪党は、アブ・ムサブ・アル
=ザルカウィという名のヨルダン人の第一級テロリストであり、言い伝えに
よれば、オサマ・ビンラディンを名指しして、“異端者のシーア派”などの
国内の敵を攻撃する熱意に欠けると批判するような人物である。アル=ザル
カウィは、政治目標ではなく、基本的に終末論的な目標を追求していると言
われ、唯一の正統カリフ[*]権力による地球統治が実現するまでの、果て
しのない敵勢力浄化戦争を望んでいるそうだ。
[イスラム世界における宗教・政治両面の権限をもつ最高権威者]

この目的を達するために、彼――または、その名を引き合いに出す輩〈やか
ら〉――は、爆弾に用いる車両をほぼ無制限に調達したり(どうやら、その
一部はカリフォルニアやテキサスで盗まれ、中東向けに船積みされているら
しい)、シーア派の学童たちやマーケットの商人、あるいは外国人の“十字
軍兵士”を道連れにするために、喜んでわが身を炎熱と溶けた金属に捧げる
サウジアラビア人などの志願者を募ったりできるだけの人脈をもっているよ
うである。たしかに、マドラッサ[イスラム神学校]自爆課程卒の義勇兵た
ちは、(ヒズボラやタミールの虎が完成した形の)自爆攻撃の論理がじっさ
いに求めるものをはるかに踏み越えているようであり、イラクにおける爆発
の多くは、遠隔操作によっても同じほど容易に起爆できるものだ。しかし、
自動車爆弾は――少なくともアル・ザルカウィの情け容赦のないヴィジョン
において――選りぬきの民族虐殺兵器であるのと同時に、天国に通じる階段
なのだ。

だが、アル・ザルカウィが、チグリス、ユーフラテス川の堤防で自動車爆弾
テロを創案したわけではない。この黒い栄誉はCIAとその秘蔵っ子、イヤ
ド・アラウィの手に帰する。2004年6月付けのニューヨーク・タイムズ
は次のように暴露した――

「イヤド・アラウィは、今ではイラクの首相に任命されているが、サダム・
フセインを退陣に追いこむことを目的とした亡命者機関を率いていたことが
あり、1990年代初め、同機関は、CIAの指示を受け、爆弾によって政
府施設を破壊する目的で、バグダードに工作員を送りこんでいたと複数の元
情報筋幹部が語った。ドクター・アラウィの団体『イラク国民合意』は、イ
ラク北部からバグダードにひそかに持ちこんだ自動車爆弾などの爆破装置を
使っていた……同地に拠点を置いていた元中央情報局幹部、ロバート・ベー
アは、爆弾が『スクールバスを吹きとばし、学童たちが殺された』と当時の
事情を語った」

タイムズの情報源のひとりは、このような爆破作戦は、学童たちの殺害も
ひっくるめて、「実地試験に他ならず、手腕を誇示するためだった」と語っ
た。この作戦によって、CIAは、当時は亡命者だったアラウィや、彼の取
り巻きであり、叩けば埃のでる元バース党員たちのグループを、サダム・フ
セインに対する心からの反攻勢力であり、(ワシントンのネオコンたちが非
常に高く買う)アーメド・チャラビを中心とするグループに替わるものと位
置づけることができた。

たった今、もちろん、自動車爆弾がイラクに君臨している。ジェームス・ダ
ニガンは、「自動車爆弾がイラクの王様であるのは、なぜか?」と題した2
005年6月つけの記事に、自動車爆弾は、スンニ派反乱集団やアル・ザル
カウィにとって「最も効果的な兵器」として、(「発見されたり、電子機器
によって起爆を阻まれたりすることが多い」)路肩爆弾の地位を奪おうとし
ており、だからこそ「テロリストたちは可能なかぎり多く造ろうとする」と
書く。イラクにおける最近の自動車保有数の「爆発的急増」によって、「自
動車爆弾は交通の流れのなかで簡単に見失われるようになった」と彼は付け
加える。

この自動車爆弾の王国にあって、占領者たちは、自分たちだけの禁断の都市
“グリーン・ゾーン”や、高度に要塞化され、警護された軍事基地にほぼ全
面的に引きこもってしまった。これらは、監視機器が狙撃手に替わるロンド
ンのハイテク・シティではなく、コンクリート製の防壁で囲いこまれ、M1
エイブラムズ戦車や武装ヘリ、さらには(グルカ[ネパール人傭兵]、元
ローデシア特殊部隊員、元英国SAS[特殊空挺部隊]要員、特赦を受けた
コロンビアの民兵を含む)傭兵派遣企業の外国人軍団に警護され、完全に中
世風城砦と化した居留地である。かつてのバース党支配階級のザナドゥ[桃
源郷]、10平方キロメートルを占める今のグリーン・ゾーンは、ジャーナ
リストのスコット・ジョンソンによれば、次のようにアメリカ流生活を移し
たシュールレアル[超現実的]なテーマパークになっている――

「大通りでショートパンツにTシャツの女性たちがジョッギングし、ピザ・
インは高度に要塞化した米大使館の駐車場のおかげで繁盛している。グリー
ン・ゾーン商店街の近くで、イラクの児童たちが兵士たち相手にポルノDV
Dを商っている。米国の指名による地元モスクのイマーム[礼拝指導者]、
フアド・ラシド師は、修道女を思わせる姿に装っていて、髪の染色はプラチ
ナ・ブロンドであり、自分の幻視にイエスの聖母マリアが現れた(だから、
こんな服装をしている)と主張する。晩にはいつでも、住民たちはカラオケ
を聴いたり、バドミントンに興じたり、盛り上がっている数軒のバーに繰り
出したりできるし、CIA経営、招待客オンリーの闇酒場もある」

グリーン・ゾーンの外側は、もちろん“レッド・ゾーン”であり、一般イラ
ク国民は、行き当たりばったり、予期もできずに、自動車爆弾に吹きとばさ
れたり、米軍ヘリに掃射されたりしている。驚くこともないが、裕福なイラ
ク人や新政府の要人たちはグリーン・ゾーン警備領域への入場権を声高に求
めているが、昨年、米当局はニューズウィーク誌に「アメリカ人を外に移す
計画は“幻想”である」と語った。グリーン・ゾーンや、その他、公的には
当分のあいだの“耐乏キャンプ”として知られる、12か所のアメリカ租界
のために、数十億の大枚が投資されていて、イラクの著名人でさえ、排他的
なバブル[*]を守るアメリカの防爆壁の外で、自前の安全保障を探しまわ
るがまま、ほったらかしにされている。サダムの秘密警察や国連による制
裁、はてはアメリカの巡航ミサイルに耐えてきた人びとは、たった今、貧し
いシーア派居住地域で、陰惨な殉教の地を探して徘徊する自動車爆弾魔に殺
されないように、身を固くしている。最も利己的な理由により、バグダード
なんかが、私たち共通の未来を暗示しているのではないと祈ろうではない
か。
[バブル=特別警護区域を地上に貼りついた巨大な泡に見立てる]

(本稿――優に一冊の本になる研究の予備的な素描――は、来年に刊行のマ
イケル・ソールキン編、Routledge社2007年刊“Indefensible Space:
The Architecture of the National Insecurity State” [仮題『防衛不能
な空間――国家安全保障不全状況の構造』]
に収録の予定)

[筆者]
マイク・デイヴィス(Mike Davis)は、カリフォルニア州サンディエゴ在
住。最新著作に――

“The Monster at Our Door: The Global Threat of Avian Flu” (The New
Press)
『感染爆発――鳥インフルエンザの脅威』柴田裕之/斉藤隆央訳、紀伊国屋
書店
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9980525479
[上記サイトにある著者紹介――1946年カリフォルニア州フォンタナに
生まれ、サンディエゴの近くで育った。精肉工場の工員や長距離トラックの
運転手などを経て、労働運動の活動家に。その後、リード大学とカリフォル
ニア大学で歴史学を学ぶ。辛口の社会批評家として知られ、現在はカリフォ
ルニア建築大学で都市論を教えている]
[なお、5月7日付け朝日新聞読書欄に同書の書評が掲載]

“Planet of Slums” (Verso)[仮題『スラムの惑星』]
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/1844670228

[原文]
Tomgram: Mike Davis, “Return to Sender” (Car Bombs, Part 2)
posted at TomDispatch on April 14, 2006
http://www.tomdispatch.com/index.mhtml?emx=x&pid=76824
Copyright 2006 Mike Davis

[翻訳] 井上利男 /TUP