TUP BULLETIN

速報635号 教育における愛国心—忍び寄る思想統制 06100

投稿日 2006年10月8日

FROM: hagitani ryo
DATE: 2006年10月9日(月) 午前3時04分

どの国でもその国のたましいが国の臭気なり 上田秋成
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先月21日に、東京地裁は、日の丸・君が代に対する起立・斉唱の義務化は、
憲法19条が保証する思想・良心の自由の侵害であり、教育基本法が禁じた不
当な支配にあたるとし、違憲・違法であると明確に認めました。しかし、政
府は教育基本法改正を優先課題に掲げており、「愛国心」を法制化しようと
しています。これに対しては、専門家からも復古主義的であることや法的拘
束が子どもの自立に弊害を与えるとして危険視する声が高まっていますが、
そもそも「愛国心」とはいったい何なのでしょうか? 著者は先人の言葉を
引用しながら「愛国心」がどういうものなのかを解き明かしていきます。
(古藤加奈/TUP)
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教育における愛国心ーー忍び寄る思想統制
ヒロアキ・サトウ(佐藤紘彰)
2006年5月29日付 ジャパン・タイムズ

ニューヨーク発ーー政治家はどうしてこういつも退嬰的なのだろう。数年前、
日本政府は日の丸・君が代を国旗・国歌と法で定めた〔訳注:ただし、掲
揚・斉唱の規定はなく、掲揚・斉唱の強制はしないとの小渕首相談話が発表
されている〕。そして今、制定後60年になろうとする教育基本法案を改正
し、愛国心を法制化するつもりだ。

「人類愛」のように、「愛国心」にはどこか安易でしかも強制的なものがあ
る。さらに悪いことに「人類愛」とは違い、「愛国心」には悪評判がしみつ
いている。

1775年のこと、サミュエル・ジョンソン〔英国の文学者・辞書編纂家〕が
「愛国心は、悪党の最後の逃げ場」という警句を発したのは有名な話であ
る。彼の友人でその伝記著者でもあったジェイムズ・ボズウェルは、この句
を書き留めながら、ジョンソンが意図したのは、「真実の惜しみない祖国
愛」のことではなく、「いつの時代にもどこの国でも、多くの者たちが私利
私欲の隠れ蓑に使ってきた偽りの愛国心」に限られている、と付け加える必
要性を感じた。

アンブローズ・ビアス〔米国の作家・ジャーナリスト〕は、『悪魔の辞典』
でこの警句を取り上げた時、歯に衣着せずにこう述べた。「ジョンスン博士
の有名な辞書では、愛国心は悪党の”最後”の手段と定義されている。賢明で
はあるものの二流の辞書編纂者に対して敬意を払いつつも、僭越ながら私は、
“最後”ではなくて”最初”の手段であると言わせていただきたい」。ビアスに
よる愛国心の定義は、「わが名に脚光を浴びせたいと願う人物にとって、彼
らの野望の松明(たいまつ)に、点火するのに格好の手近な紙屑」という書
き出しで始まっている。

ビアスが南北戦争で戦っていたころ、まだ少年であったジョージ・バーナー
ド・ショー〔アイルランド出身の劇作家・批評家〕も、後に彼の作品の登場
人物に「人類から愛国心を叩き出すまでは、静かな世界は決してやって来な
いだろう」と言わせている。

この劇作家は、このようにも述べている。「愛国心は、この国に生まれたが
ゆえに他の国よりも優れているのだと、あなたに信じさせるものである」。
これは、サミュエル・ジョンソンと同時代の日本の作家が、著名な国学者に
向かって喝破した言葉をぼくに思い起こさせる。彼はこう言い放った。
「どこの国でもその国のたましいが国の臭気なり」。少し説明してみよう。

「国学」は江戸時代に興った学問で、日本の文化(特に文学)から中国の影
響である不純物を取り除くことにより、日本の心、大和心、の真髄を引き出
そうとするものである。この流れの提唱者のひとり、賀茂真淵(1697-1769)
は「萬(よろず)よこしまにもならへば、心となるものにて、もとのやまと
魂をうしなへり」(いろいろと邪道をまねたので、それが心となってしま
い、もとのやまと魂を失ってしまった)と述べている。「国学」で、大和魂
は大和心と同義語である。

では、日本の心、魂、とは何なのだろう。真淵の第一の高弟である本居宣長
(1730-1801)は、それを煌くばかりのなにか純粋なものとして、短歌で
「敷島の大和心を人とはば朝日に匂ふ山桜花」と詠った。彼はそれだけに留
まらなかった。70歳になったとき、自分の肖像画にその歌を賛として書き込
み、弟子たちに配ったのである。

国学を学んではいたが文化的排他主義ではなかった上田秋成(1734-1809)
は、本居の自画自賛のふるまいに対し鼻であしらった。「やまとだましいと
云(ふ)ことをとかくいふよ」(大和魂なんてことをいろいろ言うなあ)と
疑問を呈し、そのあとに続いて言い放ったのが「臭気」云々である。

同時期の多くの文士仲間のように上田は漢学に精通しており、彼の書いた物
語のなかには中国の物語を翻案したものが多い。しかし、上田が国学の権威
に牙を剥いたのは中国に熱をあげていたからではないとぼくは思う。本居と
は違い、彼は国家主義的主張がばかげたものであることを知っていた。どこ
の国でも国の精神というものに注目し、それが特別なものであると思う傾向
がある。しかし、その精神は同時に国の弱みでもあるのだ。

いや、「愛」と「国」という2つの漢字からなる愛国という言葉を上田は使
わなかった。この言葉は、おそらく古典的な中国語にはなく、明治初期まで
は存在しなかっただろう。

三島由紀夫は『愛国心』というエッセイで、この言葉には「背中のゾッとす
るような感じをおぼえる」と書いたときに、そのことをよく表現した。「こ
の言葉には官製のにほひがする」、「どことなくおしつけがましい」と書
き、愛国心という言葉には、日本が西洋に対して開国したさいに、国内に注
ぎ込まれたキリスト教と大きく関係しているに違いない、と彼は指摘した。
なぜなら、言葉に含まれている「愛」という概念は、日本の伝統では見られ
なかったものだからだ。

言うまでもなく、三島は“Patriotism”〔パトリオティズム:愛国(心)〕で
有名であり、同名の英題では、自ら製作した映画だけでなく短編小説もある。
しかし、ジェフリー・ボーナスとの共同編集によるアンソロジー”New
Writing in Japan” (Penguin, 1972)の収録作品としてこの小説を選んだ
とき、彼が指摘したように使った日本の言葉は、「かなりの憂慮を意味する」
“yukoku”(憂国)であった。「国のあり方や行く末を危惧し悩むこと」と
いう意味の古い中国の言葉“youguo”(憂國)に由来するものである。
〔訳注:上記三島の短編小説と映画の原題は『憂国』。映画版は自分の最期
を暗示する割腹シーンで知られる〕

なぜ、愛国心は三島に「背中のゾッとするような感じをおぼえ」させたの
か。

彼はこう書いている。「自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員
であるにもかかはらず、その国といふものを向う側に置いて」、あたかも、
国が「狆(ちん)か、それともセーブル焼の花瓶」であるような対象として
「わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである」。国に
惚れ込むことはあるかもしれないが、国を愛するように強制されることはで
きない、と三島は言っている。死の3年前、ますます秘教的で硬直した文化
論を展開するようになっていった時期に、彼はこの文章を書いた。しかし、
この中で彼は明哲であり、説得力があった。

ジョンソンが言ったように「最後の逃げ場」であろうと、ビアスが好んだよ
うに「最初の手段」であろうとも、愛国心というのは、三島が「普遍的な擬
装」と書いたように、なにかよこしまなものである。

またもや米国が開始した戦争がいまだに続く中、パトリオットと名付けられ
たミサイルのことをぼくは考える。第二次世界大戦期の日本では、金持ちの
民間人から陸軍に寄贈された戦闘機の、好まれていた名前が「愛国」であっ
たことを思い出すけれども、パトリオット・ミサイルは、米国の戦争がどん
な名目で行われるにせよ、それには特に役立ってはいない国々に売却されて
いる。

そして、9・11後に性急に作り上げられ、アメリカ国民が大事にすべしと
教えられている自由の多くを、縮小することを主な目的とする法律も、周知
のように愛国法と呼ばれる。まったく皮肉抜きにして。

今のところ自由民主党は、1947年制定の教育基本法改正案において、愛国心
という言葉のあからさまな使用は断念せざるをえなくなったが、もともとの
案は全然変わっていない。改正案に反対して鳥取県弁護士会が発表した声明
は、「伝統」と「文化」を「尊重」し、「我が国」と「郷土」を「愛する」
ことを政府が法律で定めようとするとき、推定できる唯一の目的は「思想統
制」である、と述べている。

筆者:佐藤紘彰氏は、ニューヨーク在住の翻訳家、エッセイスト。

原文:Creeping back toward thought control
URL: http://search.japantimes.co.jp/cgi-bin/eo20060529hs.html

(翻訳:古藤加奈/TUP)

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