TUP BULLETIN

速報858号 ハワード・ジン:アフガニスタン戦争:正義の戦争ではない

投稿日 2010年8月6日
◎爆撃の歴史は終わりのない残虐行為の歴史だ

アフガニスタン戦争で死者が出続けている。7月23日国際治安支援部隊のミサイルでアフガニスタンの民間人52人が死亡した。7月26日に暴露された大量の漏洩文書に、今まで発表されていなかった民間人の被害の情報があり、事態はわかっているより深刻なことが明らかになった。駐留米軍は7月にこれまでで最悪の死者を出した。今回の速報は、反戦の歴史家ハワード・ジンが2001年12月に書き、今年1月ジンの急逝後にコモンドリームズウェブサイトが再掲したものだ。アフガニスタン戦争開始後まもなく書かれたこの論考に、「正義の戦争」を徹底的に解体する、普遍的で明確な反戦の論理がある。(荒井雅子/TUP)

正当な大義、だが正当な戦争ではない
ハワード・ジン
2010年1月28日(木)『プログレッシブ』誌

編集者注:以下の論考は、『プログレッシブ』誌2001年12月号に掲載され、そのすぐ後にこの「コモンドリームズ」ウェブサイトにも投稿されたものである。
911事件からわずか3カ月後だった。ラドヤード・キプリングがかつていみじくも指摘したように、危機のさなか、「周りがみな動転して訳がわからなくなっているときに落ち着いて物を考える人間」を探せば見識が見いだせる。ジンの業績はひと言で言うにはあまりに大きく計り知れないが、「Violence doesn’t work[暴力は機能しない]」や「Changing Obama’s Mindset[オバマの考え方を変える]」を読めば、その時々の狂騒より先を見すえていた人間の見識と高潔さがすぐわかる。ハワード・ジンはダニエル・エルズバーグがいうように、「私の知った中で最高の人間、人が何になれるか、人生を何に生かせるかを示す最良の例」だった。本当にその通りである。
 

正当な大義、だが正当な戦争ではない(2001年12月)
 

現在の「戦争」について二つの道義的判断ができると考えている。911攻撃は人道に対する罪であり、正当化されえない。同時にアフガニスタン爆撃もまた、正当化できない犯罪である。
 

ところが、多くの左派も含めて、どの政治的立場からも、これを「正義の戦争」とする声が聞こえる。長年の平和提唱者リチャード・フォークは、『ネーション』誌に、これは「第二次世界大戦以来初めての真に正当な戦争だ」と書いている。もう一人の長年の社会正義の支持者ロバート・カットナーも『アメリカン・プロスペクト』誌で、これが正義の戦争でないと考えるのは、極左の人間だけだ、と言い切った。
 

私は理解に苦しんでいる。戦争が民間人を日々殺害し、何十万人もの男性女性、子どもたちが爆弾から逃れるために家を離れざるをえず、一方で、911攻撃を計画した人間たちは見つからない可能性があり、米国に対する怒りのあまり自分もテロリストになる人間を増やすことになるというときに、どうしてそれが真に正当な戦争でありうるだろう。
 

この戦争は甚だしい人権侵害であり、得ようとするのと正反対の結果を生むことになる。すなわちテロを終わらせるのではなく、増殖させる。
 

進歩派の戦争支持者は「正当な大義」と「正当な戦争」を混同していると私は思う。大義は不当な場合がある。米国がベトナムに権力を確立しようとしたこと、パナマやグレナダを支配しようとしたこと、ニカラグア政府を転覆しようとしたことなどだ。正当な大義もありうる――北朝鮮を韓国から撤退させる、サダム・フセインをクウェイトから撤退させる、テロを終わらせる――。だが、だからと言って、
その大義のために、無差別の暴力を避けられない戦争をするのが正当だということにはならない。
 

米国による爆撃がもたらす影響についての情報が断片的に届き始めている。爆撃開始からわずか18日でニューヨークタイムズ紙は、「米軍がカーブルの住宅地区を誤爆した」と伝えた。米軍機は赤十字倉庫を2度爆撃し、赤十字の広報責任者は「今、5万5000人に食糧も毛布もなく、まったく何もありません」と言う。
 

アフガニスタンのある小学校教師がパキスタン国境でワシントンポスト紙記者に言った。「爆弾が自宅の近くに落ちて幼いわが子たちが泣き始め、逃げるしかありませんでした」
 

ニューヨークタイムズ紙のある報道によれば「米国防総省は、政府筋によれば老人センターとされる施設の近くに海軍のF/A-18機1機が日曜日に1000ポンド爆弾を投下したことを認めた。…国連はその建物が軍病院だと言った。…数時間後、海軍のF-14機1機がカーブル北西の住宅地区に500ポンド爆弾2発を投下した」。ある国連職員はニューヨークタイムズ紙記者に対して、ヘラートの街に対する
米軍の空襲でクラスター爆弾が使用されていたと言った。クラスター爆弾は、サッカーコート20面に相当する範囲に致死的な「子爆弾」をまき散らした。ニューヨークタイムズ紙記者は「米国による爆撃が誤って民間人の犠牲を引き起こしているという話は増えつつあり、これはその一番最近のものだ」と書いている。
 

米軍の爆撃を受けた小さな山村カラムに派遣されたAP通信記者は、瓦礫と化した家々を見た。「東に40キロ離れたジャラーラーバードの病院では、医師がカラム爆撃の犠牲者という23人を治療した。1人は2カ月になるかならずの赤ん坊で、血だらけの包帯に包まれていた」と言う。「もう一人の子は、近くに住む人の話によれば、家族全員が空襲で殺されたために病院にいたという。少なくとも18の新しい墓が村のあちこちにできていた」
 

カンダハールの街は17日連続で攻撃を受けてゴーストタウンと化し、50万人の住民の半数以上が爆弾から逃れるために街を離れたと報じられた。街の送電網は破壊されていた。電気ポンプが動かないため街の水道供給は断たれていた。ある60歳の農民がAP通信記者に言った。「命が危ないから逃げたんだ。毎日毎晩、飛行機の轟音がごうごう聞こえて、煙と火が見えて…。どっちもくたばるがいい ――タリバーンもアメリカも」 

 

爆撃作戦開始から2週間後のパキスタンからのニューヨークタイムズ紙報道は、民間人負傷者が国境を越えてきていると伝えた。「一日中、30分おきぐらいに担架で運び込まれる人がいる。…ほとんどは爆撃の犠牲者で、手足をなくしているか爆弾の破片がささっている。…頭と片方の足を血だらけの包帯で包まれた幼い男の子が、アフガニスタンへ重い足取りでもどっていく年老いた父親の背中にしがみついていた」
 

爆撃開始後わずか数週間でこのようなことが起き、その結果すでに何十万人ものアフガニスタン人が恐怖に陥って家を棄て、地雷のばらまかれた危険な道路へ追い立てられている。「対テロ戦争」は、ニューヨークへのテロ攻撃にはまったく何の責任もない無辜の人々、男性、女性、子どもたちに対する戦争になった。
 

ところが、これを「正当な戦争」だという人間たちがいる。
 

テロと戦争には共通したところがある。殺害する側が正しい目的だと信じるものを達成するために無辜の人々を殺すことだ。このように並べればすぐ反対されるのはわかっている。彼ら(テロリスト)は意図的に無辜の人々を殺すが、われわれ(戦争をする人間)は「軍事標的」を狙うのであって、民間人は誤って殺される「付随的被害」だ、と。
 

民間人が私たちの爆撃で死ぬのは本当に誤爆なのだろうか。かりに意図していることが民間人の殺害ではないとしても、何度も繰り返し民間人が犠牲になり続けるとすれば、それを誤爆と呼べるだろうか。爆撃で民間人の死が避けがたいとすれば、意図的ではなくても、それは誤爆ではない。爆撃する側に罪がないとはみなされ得ない。テロリストと同じように確実に殺人を犯しているのである。
 

このような場合に罪がないと主張することの愚かさは、「付随的被害」による死者が、最も凶悪なテロ行為による死者をはるかに上回るとき、明らかになる。湾岸戦争の「付随的被害」は、まさに意図的なテロ行為だった911攻撃よりも多く――米国の制裁政策の犠牲者も含めれば数十万人――の死者を出した。パレスチナの爆弾テロによるイスラエルの死者の総計は1000人弱だ。イスラエルによる1982年のレバノン侵攻中、ベイルート爆撃の「付随的被害」の死者数は、約6000人だった。
 

だが死者リストの長さを比べたりすべきではない――忌まわしい行為だ―― あたかも残虐行為によって邪悪さに違いがあるかのようだ。無辜の人々の殺害はいかなる場合も、意図的であれ「偶発的であれ」、正当化され得ない。 私が言いたいのは、子どもたちがテロリストの手にかかって命を落とすとき、あるいは――意図的であろうがそうでなかろうが――戦闘機から投下された爆弾で命を落とすとき、テロと戦争は等しく許されないということだ。
 

「軍事標的」について考えよう。この言葉はたいへんあいまいなので、トルーマン大統領は広島の住民を核爆弾で跡形もなく消し去った後、こう言えた。「世界は、最初の原子爆弾が軍事基地である広島に落とされたことを心に留めるだろう。なぜなら、われわれはこの最初の攻撃において、可能な限り民間人の殺害を避けることを望んだからである」
 

私たちは今、自国の政治家からこう聞かされている。「われわれは軍事標的を狙っている。民間人の殺害を避けようとしている。だが、それは起きることがあり、遺憾に思う」。アメリカ人は、米国が「軍事標的」だけを爆撃していると考えてやましさを感じなくなるのだろうか。
 

現実には、「軍事」という言葉は、民間人も含め全種類の標的を指す。イラク戦争中のように、米軍の爆撃機が送電インフラを意図的に破壊して、浄水施設と下水処理施設を稼働不能にし、その結果、水の媒介による病気が蔓延したとき、子どもをはじめとする民間人の死は偶発的とはいえない。
 

湾岸戦争のさなか、米軍が防空壕を爆撃して、爆弾を逃れようと身を寄せ合っていた400人から500人の男性女性、子どもを殺害したことを忘れてはならない。そこは通信施設のおかれた軍事標的だったと主張されたが、直後に瓦礫の中を通った記者たちは、そのようなことを示すものはまったくなかったと言った。
 

爆撃の歴史――そしてこの国は誰よりも多くの爆弾を落としてきた――は、終わりのない残虐行為の歴史だと私は言いたい。残虐行為はすべて、「誤爆」「軍事標的」「付随的被害」といった、死と欺瞞の言葉で平然と説明される。
 

実は、第二次大戦でもベトナムでも、歴史的記録を見れば、敵の士気を打ち砕くために民間人を標的にするという決定が意図的になされていたことがわかる――ドレスデンやハンブルグや東京の爆撃、ハノイ上空のB-52、ベトナムの田舎の平和な村々の上空に送られた爆撃機。われわれは「過度の武力行使」を行うことなく「限定的軍事行動」を遂行できるのだなどと論じる人間たちは、爆撃の歴史を無視している。戦争の勢いは制限など蹴散らしてしまう。
 

アフガニスタンでの道義的方程式は明白である。民間人の犠牲が出るのは確実だ。一方、成果は不確実だ。この爆撃が何を達成することになるのか、誰にもわからない――オサマ・ビン=ラーディンをとらえることにつながるのか(おそらく)、タリバーン支配の終わりか(可能性はある)、アフガニスタンの民主化か(考えにくい)、またテロに終止符を打つことになるのか(そうならないのはほぼ確実だ)。
 

その一方で、私たちは住民を恐怖に陥れている(テロリストを、ではない。テロリストは簡単に恐怖に陥ったりしない)。何十万人もの人たちが荷物をまとめ、子どもたちと一緒に車に乗せて家を離れ、少しは安全だろうと考える場所を目指して危険な旅に出る。
 

「対テロ戦争」と呼ばれる、この歯止めのない暴力で、一人の人命も失われてはならない。
 

今現在起きていることに照らして、平和主義という考え方を検討してみよう。私は自分のことをさすのに「平和主義者」という言葉を使ったことは一度もない。というのはこの言葉は何か絶対的なものを示唆しているからで、私は絶対的なものは疑ってかかっている。予想外の可能性の余地を残しておきたいと思う。目の前にある、怪物のような悪に対する、焦点を絞った小規模な暴力が正当化される状況がありうるかもしれない(ガンジーやキング牧師のような断固とした平和主義者でさえそう考えていた)。
 

しかし戦争では、手段と目的がまったく不釣り合いだ。戦争は、本質的に、焦点のない無差別なもので、特にテクノロジーがこれほど殺傷力をもった私たちの時代には、多くの人の死と、さらに多くの人の苦しみをもたらすことは避けられない。「小規模戦争」(イランイラク戦争、ナイジェリア戦争、
アフガニスタン戦争)でさえ、百万人が死ぬ。米国がパナマで行ったような「ごく小さな」戦争でさえ、千人あるいはそれ以上が死ぬ。
 

ナショナル・パブリック・ラジオ(NPR)[米国の公共ラジオ局]のスコット・サイモンは10月11日ウォールストリート・ジャーナル紙に、「平和主義者もこの戦争を支持せよ」という題の論説を書いた。サイモンは、平和主義者が自衛は認めていること、すなわちすぐにも攻撃してくる相手に対する焦点を
絞った抵抗を認めていることを援用して、自身が「自衛」と称するこの戦争を正当化しようとした。だが「自衛」という言葉は、一つの国全体に爆弾を落として、自分を攻撃してきた人間以外の多数の人々を殺すときには当てはまらない。また、目指す目的に到達できる可能性がまったくないときにも
当てはまらない。
 

平和主義を私は戦争放棄と定義するが、それは一つの非常に強力な論理に則っている。戦争では、手段――無差別殺戮――は確実で差し迫っている。一方、目的は、どれほど望ましいものでも、遠く不確実である。
 

平和主義は「宥和」ということではない。「宥和」というのは、アフガニスタンで現在行われている戦争を非難する人間に対してしばしば投げつけられる言葉で、チャーチルやチェンバレン、ミュンヘンとの関連がついて回っている。戦争を正当化する必要があるとき、その時の状況にはどれほど的外れであっても、第二次世界大戦との類似が都合よく引き合いに出される。ベトナムからの撤退、
あるいは対イラク戦争回避という提案に反対して、「宥和」という言葉が使われた。「正義の戦争」のオーラは、1945年以来米国が戦ってきたすべての不正な戦争の本質を覆い隠すために、繰り返し使われてきた。
 

この類似について検討してみよう。飽くことを知らないヒトラーを「宥和」するために、チェコスロバキアは彼の手に渡された。当時ドイツは勢力を広げつつあった攻撃的国家で、その拡大に手を貸すのは賢明ではなかった。だが今日私たちは、宥和が必要な拡大主義勢力と相対しているわけではない。私たち自身が拡大主義勢力であり――サウジアラビアでの部隊駐留、イラク爆撃、世界中にある軍事基地、全海域にいる戦艦――、そのことが、ヨルダン川西岸地区とガザ地区へのイスラエルの勢力拡大とあいまって、怒りを呼び起こしている。
 

ヒトラーを宥和するためにチェコスロバキアを明け渡したのは誤りだった。中東から米軍を撤退させることは誤りではなく、またイスラエルが、占領地から撤退することも誤りではない。そこにいる権利はないからだ。これは宥和ではない。 正義である。
 

アフガニスタン爆撃に反対するのは、「テロに屈する」ことにも「宥和」にもならない。私たちが直面する問題に、戦争以外の解決手段を見つけることを求めるものだ。キング牧師とガンジーはどちらも行動――非暴力の直接行動を信じていた。それは戦争よりも強力で、間違いなく戦争より道義的に擁護できる。
 

戦争放棄は、平和主義が戯画化されてきたように「もう一方の頬を差し出す」ことではない。この場合には、テロリストのまねをしない方法で行動するということだ。
 

米国は911事件を恐ろしい犯罪行為とみなし、可能な限りの情報、調査手段を使って容疑者の逮捕を求めることができたはずだ。国連に訴えて、テロリストの追跡と逮捕に他国の支援を取り付けることもできたはずだ。
 

交渉という道もあった。(「何だって? あんな怪物どもと交渉だと?」というような言いように耳を傾けるのはよそう。米国は世界でもっとも極悪非道な政府と交渉――それどころか、そうした政府を政権につけ、それを維持――してきた。)ブッシュが爆撃機に命令を出す前に、タリバーンはビン=ラーディンを裁判にかけることを申し出た。これは無視された。空爆開始から10日後、タリバーンが爆撃停止を求め、裁判のために第三国にビン=ラーディンを引き渡すことについて交渉する用意があると言ったとき、翌日のニューヨークタイムズ紙の見出しはこうだった。「大統領、交渉を求めるタリバーンの申し出を拒否」。そしてブッシュはこう言ったと伝えられた。「交渉はしないと言ったら、しないんだ」
 

これは、なにがなんでも戦争しようと血眼になっている人間のすることだ。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、そしてユーゴスラビア爆撃の開始時にも、似たような交渉可能性拒否があった。その結果、膨大な人命が失われ、人々は計り知れないほど苦しんだ。
 

国際警察業務と交渉は、かつてもそして今でも、戦争に代わる選択肢だ。でも自分を欺くのはやめよう。私たちがビン=ラーディンの逮捕や、あまり可能性はないがアル=カーイダの全ネットワークの破壊に成功していたとしても、それでテロの脅威が終わるわけではない。テロにはアル=カーイダをはるかに超える集兵力がある。
 

テロの根本に迫るのは簡単ではない。爆弾を落とすのは簡単だ。爆撃は、誰の目から見てもきわめて新しい状況に対する、古臭い対応である。口にするのも忌まわしい、正当化できないテロ行為の核にあるのは、自らテロに走ることはないが同胞からテロリストが生まれてくる何百万人もの人々がもつ、正当な不満である。
 

不満には二つのことがある。西側社会、とりわけ米国の富と贅沢と対照的に、世界各地に深い悲惨――飢餓、病気――が存在していること。そして世界中に米軍が駐留して、米国の覇権を維持するために抑圧的政権を支え、繰り返し武力介入していること。
 

それゆえ、テロという長期的な問題に対処するというだけでなく、それ自体公正な行動が求められる。
 

一日2機の飛行機でアフガニスタンに食糧を投下し、100機で爆弾を落とす(それで国際機関のトラックの食糧配達が難しくなっている)のではなく、102機の飛行機を、食糧を届けるのに使う。
 

私たちの巨大な戦争マシーンに充てられる資金を、世界中の飢餓と病気と闘うために使う。私たちの軍事予算の3分の1で、きれいな水も下水処理施設ももたない世界の10億の人々に、毎年、水と施設を供給できる。
 

サウジアラビアから部隊を撤退させる。聖地であるメッカとメディナの近くに部隊が駐留していることは、ビン=ラーディンだけでなく(彼を怒らせるかどうか気にする必要はない)、テロリストではない多くのアラブ人の怒りを巻き起こしている。
 

イラクに対する過酷な制裁をやめる。制裁は毎週千人以上の子どもを殺しているが、フセインの暴力的なイラク支配を弱体化させるのには何の役にも立っていない。
 

イスラエルの占領地からの撤退を強く求める。これは多くのイスラエル人も正しいと考えていることであり、イスラエルを今より安全にすることになる。
 

要するに、軍事超大国であることをやめ、人道大国になろうではないか。
 

もっと謙虚な国になろう。そうすれば私たちは一層安全になる。世界の謙虚な国々はテロの脅威に直面していない。
 

こうした根本的な外交政策の変化は到底期待できない。あまりに多くの利益を脅かすことになるのだ。政治家の権力、軍の野望、国の膨大な軍事事業から利益を得ている企業。
 

変化が起こるのは、私たちの歴史の他の時代のように、ただアメリカ市民が――もっと情報を得て、公式政策を最初に直感的に支持した後で考え直して――変化を求めるときだけだ。市民の意見のこうした変化は、特に政府が暴力は機能しないと実際的決断を出すのと同時に起きれば、軍事的解決からの引き上げにつながりうる。
 

それはまた、世界の中での私たちの国の役割を考え直す第一歩でもある。そのような見直しは、アメリカ人にとっては真の安全を約束するもの、そして他の人たちにとっては希望の始まりとなる。
 

ハワード・ジン(1922-2010)の著作には『民衆のアメリカ史』、『Voices of a People’s History[民衆のアメリカ史の声]』(アンソニー・アーノブと共著)、『A Power Governments Cannot Suppress[政府が抑圧できない一つの力]』がある。
 

原文
A Just Cause, Not a Just War
by Howard Zinn
Published on Thursday, January 28, 2010 by The Progressive 

修正:イラク戦争 → 対イラク戦争 (2010.8.12)