TUP BULLETIN

速報889号 シリーズ「パレスチナの女性の声」【2】-3/3 [移動の自由の侵害-3]

投稿日 2011年2月15日

女たちの証言--占領下パレスチナで生きるということ


このシリーズ「パレスチナの女性の声」はWCLAC(女性のための法律相談センター)の2009年報告書の翻訳です。スペィシオサイド(spaciocide、空間的扼殺)とも形容される占領下で、日常的暴力と人権侵害に苦しむ女性に対する聴き取り調査に協力した19人の女性の証言をお届けしています。

これまでの「暴力」に続く「移動の自由」を3回に分けて配信します。

移動の自由を享受している私たちには、パレスチナ人の移動の制限は想像を絶します。親族同士の行き来さえ不自由にしているばかりか、時に命に関わり、さらに「暴力」とも重なっている状況を、三人の女性が証言しています。今号は証言10です。

報告書はこのあと「居住権の侵害と引き離される家族」「家屋の取り壊し」と続きます。

シリーズ全体の前書き:岡真理、向井真澄/TUP (TUP速報869号をご覧ください)

 翻訳:岡真理、キム・クンミ、寺尾光身、樋口淳子、藤澤みどり、向井真澄/TUP

 凡例 [ ] :訳注

   〔 〕:訳者による補い

 

パレスチナ女性に対するイスラエルの人権侵害報告書–2009年度版
シリーズ【2】─移動の自由 3/3 証言10

証言10
リマ・アブー・エイシェの証言

場所:ヘブロン、テル・ルメイダ、ジャバル・アル=ラフマ
聴き取り日時:2009年10月20日
 

リマ・アブー・エイシェは42歳、ヘブロンの旧市街テル・ルメイダ地区 の広い家に一族で住んでいます。彼女はその家の1階で、夫と子どもた ち五人と暮らしています。ムハンマドは19歳で、フィーダは17歳、ア シュラフは15歳、シャリーフは12歳、それからハイサム2歳です。上三人の娘たちはみな結婚してそれぞれ夫と生活しています。

詳しい証言の中でリマは、家の周りに入植地が造られたために行動に制 限がかけられたことを話しています。家は四つの検問所に囲まれ家に行くには、家族の構成員ではない者は誰でも許可証が必要で、兵士にそれを提示しないと通行を許可してもらえません。リマや家族の行動も、家周辺の道路上での嫌がらせや暴行を働く入植者がいることで制限されています。

「1984年に、ローマ時代の考古学的遺跡と信じられている地域にユダヤ人入植地が建設されました。入植地は最初は数台のトレーラーハウスで始まり、私たちの家から約5メートル離れたところでした。私たちの家に通じる道路に沿って三つの検問所が置かれました。最初のが我が家の東の方500メートルのところに置かれ、バーブ・エル=ザーウィヤ側からのシュハダー通りへの入り口を塞ぎました。この検問所はそこからこちらの地域に車が入るのを妨げています。1990年代以来です。そこには金属探知機が置かれていて、全員通らねばなりません。私たちは急な坂のてっぺんに住んでいますが、二番目の検問所がこの坂の角、我が家の北約55メートルのところに作られ、私たち家族皆の身分証明書を調べ、また訪ねてくる人たちを我が家に来させないようにしています。第三の検問所は私たちの家の南約5メートルに置かれました。さらに四番目の検問所が、私たちの家の正面入り口の北、約15メートルにあって、兵士たちは常駐はしていませんが、時どき、特に土曜日には駐在しています。

1996年にイスラエル軍が私たちの家に来る自動車に制限を課しました。 2001年には、通行を許可してもらうには事前に発行される特別許可証を所持することが必要になりました。これは救急車にさえも適用されました。それ以降私たちは買ったものや他の重い物を長い距離持ち運ばねばならなかったり、カートに乗せて運ばねばならないことになりました。

カートはよく兵士に停止させられたり邪魔されたりしました。兵士たちは誰であれ行政からの特別許可証を持っていない限り私たちを訪ねることを禁じさえしました。兵士たちは私たちに自分の家に行くのに他の道を使わせようとしましたが、他には道はありません。2002年には入植者たちは私たちの家の向いにアパートのビルを建てました。16戸入っていて、その時までトレーラーハウスに住んでいた入植者に住居を提供するためでした。」

長年にわたって、私たちは多くの問題を抱えてきたし、私の家族は入植者と兵士たちに繰り返し攻撃の的にされてきました。入植者が私たちに投げつける石で、うちの窓は何度も何度も割られました。私たちは入植者たちのわるさに抵抗しそして被害を最小限にするために我が家の東側全体を覆うように金属製の格子を作ることにしました。ちょっと牢屋に住んでいるような感じですが、少なくとも囚人たちは親族訪問が許されています。私の親族はここ十カ月の間に我が家への訪問をたった一回しか許可されませんでした。そしてそれはラマダーン月の間の食事のためでした。そのためでさえ、私の五人の兄弟たちは同じ日に一緒に来なければなりませんでしたし、真夜中になる前に家を辞さなければなりませんでした。

一番最近の事件は2009年10月4日の日曜日におこりました。私は義兄の娘のメルヴァトに会いに行くところでした。私たちのところから坂を下りたところ、第二の検問所の丁度隣に住んでいます。私が家から外に出ることはそう頻繁には無いのですが、今度は、四カ月の男の子をお医者さんの予約に連れて行くのに私に付き添ってもらいたかったので、大事なことでした。私が家の外に歩いて出て行きました。ところが数メートル歩いて入植地の近くの何かコンテイナーの様な物のそばに来た時、入植地に住むある女に気づきました。その女が近くのトレーラーハウスの一つに住んでいることを私は知っているのです。女は私が家を出ると同時に出てきて洗濯物入れを持っていました。私は歩き続けましたが、その入植者の女が私の方に急ぎ足で来る足音が聞こえました。私が振り向くとその女が石を一つ拾い上げ、そのオレンジより少し大きな石を私に向って投げるのを見ました。私は素早くよけて石を避け、通りの反対側に横切りました。また女が私の方に向ってくる足音を聞き向き直ると、もう一つ石を拾い上げてまた私に投げつけるのが見えました。今度も石をやり過ごし、女から逃れるために道を横切ってこちら側に戻りました。幸いにも二回とも当たりはしませんでした。

それからその女は下の検問所にいる兵士に向って大声で叫びました。ヘブライ語で叫んでいたのですが、私は少しわかるので、「あの女はあの家に住んじゃいない」と言っていました。これが意味することは、私がこの地域に住んでいないので検問所を通らせてはならない、ということです。そこの兵士たちは私が誰か知っているのです、ここ二、三カ月の間に同じ兵士たちが私を通してくれていたのです。それでもなお私が検問所に着くと兵士が言いました、「私はおまえがここに住んでいることを知っている。しかしあの人がおまえを入れるなと命じたので、おまえを通すことはできない」と。女性入植者が私がそこに住んでいないと告発した、だから兵士たちは私を拒否しなければならない、ということです。兵士は私にイスラエルの民生事務所に電話するようにと言いました。そうすればパレスチナ調整事務所といろいろ話し合うだろうと。これは馬鹿げたことでしたが、私にできることは何もありませんでした。

私の義理の父は我が家の二階から起こっていることすべてを見、そして聞いていました。義父は事態を何とかしようと思って民生事務所に電話をかけ、それから下りてきて、検問所のそばで私といっしょに待ってくれました。私が自分の家に住んでいるかどうかの決定がされる間1時間以上そこで待たなければなりませんでした。腰掛けるところも無いので路上に立ち続けなければなりませんでした。兵士たちは私をどこにも行かせませんでした-民生事務所からの同意が私にくるまで待てと私に命じました。1時間たって、兵士たちは私に通ってよいと言いました。私は家に帰りました、メルヴァットの家に行く気になれなかったのです。どの道、メルヴァットは予約のためにもう家を出なければならなかったでしょう。

ここではどんな具合か、これはほんの一例にすぎません。私たちの一挙手一投足が、私たちの道路上に何時でもいる入植者や兵士たちによって監視されているのです。私はいつも私の子どもたちのことを心配していて、学校が終わって子どもたちが無事家に帰ってくるまで食べる気になれないのです。子どもたちが家に向って坂を上ってくるとき、私は家の窓から子どもたちを見守っていますし、義父も二階から子どもたちの姿を求めて外を見ています。子どもたちは、家に帰るところだということを知らせるために、第一検問所を通る前に父親の店に寄らなくてはいけないことを理解しています。夫はそれから私に、子どもたちを待っていて、今帰るところだから、と電話をかけてきます。

私たちはみなこの牢獄に閉じ込められているのです。状況が状況なので私は月に一度くらいしか家を空けません。家を留守にしている間に入植者たちが家を襲わないか、あるいは子どもたちに乱暴しないか心配です。手続きがうまく行かず、私の兄弟たちは2009年1月以来たった一度しか私たちのところに来ていませんし、私の結婚した娘たちは十カ月以上全く来ていません。私たちは自動車を使うことが許されていないので、家族で出かけることもあまりできません。

私は子どもたちを路上で遊ばせることは決してしません、危なすぎるからです。入植者たちがいつもうろうろしているし、銃を持った兵士たちが四六時中いるのです。私の子どもたちはただ自分の家に行く道に入るために身分証明書を見せなければなりません。それなのに入植者の子どもたちは外に出て路上で遊んでおり、入植者と家族たちが自家用車に乗って出掛けるのを見ますし、入植者たちには自分たちの思い通りにやる自由があるのをみています。お祭りや大事な行事の時に私は特に差別を感じます。私は思い通りには家族にきてもらうことができず、一週間前に民生事務所の同意を取り付けなければならないのに、入植者たちは大きなお祭りや祝賀会をなんの制限もなしにできるのです。」

原文

A 2009 report on Israel’s human rights violations against Palestinian women
http://www.wclac.org/english/publications/book.pdf

(次号予告:シリーズ【3】─ 「居住権の侵害と引き離される家族」)